池田屋を撮影していた時に自分で言っていた。
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地元民にとっては、池田屋なんて普通の光景だし「何を今更」なんだろうなぁ。
こっちはこれが目的で休暇を取っているのにね。
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って。
昨年の紀行断念から復活をすべく踏ん張ってはいるが、まだもうちょっと時間が掛かる想定。
だから「そういえば関東は?」に着目。
よく考えたら23区内に通って29年。
どんだけ見慣れとるんじゃ!ってな光景や、見過ごしたまま気がつかない光景が一杯あるハズ。
という事で高知・京都と全く同じ手法で拾ってみた。
結構あるもんだな。
まぁ、倒幕の終焉は江戸なんだし、むしろ新政府樹立後の統治力物語はほぼ全てが東京府なのだから当たり前の話か。
最初は東京都だけの括りで始めたのだが、改めて関東を見渡してみると東京以外は訪れたい史跡は数箇所しか無かったので「関東編」とした。
また話の進め方だが、遠方へのツーリングではないので時間を見てはちょこちょこと足で稼いで巡っている。
だから旅の記録のような時間軸の日記風ではなく、個々の訪問記として独立した文調となっている。
尚、右の地図は以下の関東維新史跡巡りの詳細位置だが、
別ウィンドウで大きな地図で見ながら読んだほうが判り易いので、
以下の一覧の「史跡名」をマップにリンクし、「記述順」で直接記事にジャンプするようにしました。
(いづれもインターネットに繋がっていないと見る事はできません)
【2012年4月】
暖かくなってきましたなぁ。
今日はスーツの上のジャンパーが暑くて脱いでしまいました。
もうポカポカ陽気です。
ところで一昨年だったかな?
「立会川」の客先に行ったついでに写メした「浜川砲台跡」が写メじゃん!!的な画質に耐えられず、いつかまた来ようと思っていた訳。
んで、来てみた。
もう、1回来てるから場所も撮影ポイントも判ってるのでサクッと行動する。
先ずは駅前。
全長30kmに満たないR15が駅を出たすぐ右手を走る。
旧東海道だからこの道沿いには旧跡が結構あるのだな。
【01.土佐藩邸】
先ずは海と反対側のR15を渡って右に歩くこと200m。
現在の区立浜川中学校の付近に土佐藩の下屋敷があった。
下屋敷とは江戸城から近い順に上中下とされた屋敷の名称で、云わば参勤交代で大名が住む上屋敷の別邸みたいなものである。
江戸城から直線で2里半(10km)なのでそう遠くはないが、土佐藩の場合は後述する上屋敷が現在の東京国際フォーラムという1km圏内と非常に恵まれていた為に下屋敷となった。
【02.竜馬像】
立会川駅まで戻って今度は反対側へ30m。
そもそも立会川地区が有名になったのは、黒船来航時の浜川砲台警備に駆り出された竜馬所縁(ゆかり)の地としてなので、高知県から寄贈されたプラスチック製の像はもともとあったのだそうだ。
しかし大河ドラマの影響で観光客の激増を見込んだ地元によるブロンズ像の建立となったようである。
【03.浜川砲台跡】
そこからまさに立会川のほとりを歩いて300m。
浜川砲台跡になる。
ちなみに前回訪れた時に@に位置する「鳳明軒」で高知県産シャモを使った「龍馬ラーメン」なるものを食したが千円と高かったので今回はパスした。
前回、大河ドラマが始まる1年前に訪れた時にすでにこの状態だった。
しかし地元では観光客を当て込んで「綺麗に改修する予定」と言っていたのだが、その2年後に訪れてもご覧の通り全く変わっていなかった。
正直がっかりしたぜぃ。
ブームが去ったら立看の傾きすら放置かい。
竜馬像を建立するお金があるなら、こうした史実蹟を大事にすべだろう。
いや有志活動は立派だとは思うが、竜馬の絵柄に捉われすぎると「結局ゼニ欲しさの張りぼて作戦だったのかよ!」と勘ぐってしまう。
これは品川区の(いや東京都の)責任だよ。
情けない現状である。
【04.土佐上屋敷跡】
じゃぁ、ついでにという事で上屋敷跡に向かってみよう。
とか言っても、そこは東京のど真ん中。
東京駅と有楽町駅の中間という立地で跡さえあるハズもない。
もと東京都庁の頃は跡碑があったらしいのだが、東京国際フォーラムになってからはこの「東京府庁舎」の碑だけのようである。
しっかし、この撮影は困難を極めた。
この場所は常に数百人が縦横無尽に歩き回っていて人が途切れる事はない。
特に展示会なんぞやっていたらなおさらだ。
そこで一計を案じることにした。
撮影は平日の14時。
何故かあたしは今、スーツ姿でビジネスカバンを抱えている。
カバンからノートを出してボールペンで何かを記載するフリをしながらカメラを取り出して構える。
どう見ても恰幅とふてぶてしさから都の設備関係のおエライさんの様相だ。
「ちょっと失礼!」
といってカメラを構えると、瞬間全員が止まってくれる。
撮影後「すみませんでした!どうぞお通り下さい!」と強めに発言。
完全に都職員風味だぞ。
その結果がこの無人状態という訳だ。(→)
やったね。
【05.勝海舟邸跡】
ところで当時の関東の人物と言えば「勝海舟」だな。
パッと思いついたのは勝邸跡。
たしか赤坂だった、との記憶と今時のスマホから簡単に住所が割れる。
よし、ちょっと足を伸ばしてしまえ。
有楽町駅まで戻って、千代田線の日比谷駅まで歩く。
千代田線で3駅の赤坂駅。
7番出口から約300mでカフェバーに到着。
残念ながら千葉貞吉が構えた小千葉道場の所在地がはっきりしていない現在では、八重洲南口、八重洲ブックセンターあたりだという事しか判っていないが、そうだと仮定するとここまで4km。
竜馬が小千葉道場から勝邸の門まで、夜警する為にだけに、1里の道を毎日通ったという記述はウソではないような気がしますな。
【06.玄武館跡】
という事で、今度は再び千代田線から日比谷線に乗り換えて秋葉原へ。
千葉貞吉の小千葉道場跡がないぶんだけ、千葉周作の玄武館跡を見ておこうと。
「技の千葉、力の斉藤、位の桃井」と言われた本家本元の千葉道場の跡地である。
新撰組の藤堂平助なども玄武館出身であるので云わば竜馬の後輩に当たる関係となる。
同門の上下関係は当時の尊皇攘夷派と佐幕派という交わり得ない壁さえも打破する力をもっていた訳で、そうした関係が京都において何度竜馬の命を救った事か知れない。
その意味では尊皇攘夷を天誅という方向ではなく開国論という方向から進めた政治家竜馬であるが、根本には「ひたすら武芸に打ち込む」事に「時間を費やす=一見遠回りをする」事が結局は自分を助ける事になる、そして自分にとっては決して無駄とはならない習熟期という時間も必要なのだ、と語りかけてくれる歴史なのである。
ここは1993年に神田小学校と統合・廃校された千桜小学校跡地なので、今は閉門されていて門の外からの撮影となる。
【07.旧岩崎邸庭園】
千代田線の湯島駅からすぐの湯島天神から300mほど。
毎日通りながら行ったことの無かった岩崎邸。
まぁ、タイミングってやつですな。
現在は東京都の持ち物なんだから400円払ってもいいけどさ・・・・。
年間の平均入園者数が20万人らしいから収入は8千万円か。
税金がタダなら利益は出てそうだな・・・・・。
戦後は司法研修所として使っていたが1970年以降は重要文化財として非公開。
2001年から都立の庭園として公開された建物は時代の香りがする造りだ。
ただこれ民家だったんだよな・・・やっぱすげ〜な・・・・。
でもこれでも本来の1/3の広さだから・・・やっぱすげ〜な!!
まぁ〜綺麗〜な、見事な庭!
完璧な手入れだ。
ちなみに後ろに見えるのは東京大学の赤門からまっすぐ300mほど奥に入った東京大学付属病院。
その右手はもう上野不忍池だ。
撞球(ビリヤード)室って意味が判んない・・・・・。
自分流で言うと「自宅でジムカーナやりたいからコース作っちゃった!」的な?・・・・意味が判んない・・・・。
しかも洋館(↑の館)と地下で繋がってるんだって。
雨に濡れないでビリヤードしたいから・・・・意味が判んない・・・・。
西郷邸とかさ、勝邸とかさ・・・今はニッポン中が雨漏りをして候・・・とかさ・・・・ちった見習えよ・・・。
でも元々は高田藩の中屋敷で、明治11年に弥太郎が中古住宅として買ったらしいから、誰の嗜好なのか?は不明だけど。
【08.彰義隊の墓】
訪歴順序が年次ではないので、時代考証をしておこうと思う。
鳥羽伏見の戦いの後・・・と言ってもピンとこない人の為にもっと遡って、そもそも坂本竜馬が結果的に優秀な政治家だったのか?
というと「それは何ともいえない」が正解だと思う。
大政奉還という快挙は竜馬の発想からスタートしたとはいえ、肝心な後始末が出来ていないと感じている。
それは双方の私恨について。
強大な薩軍は力で幕府を潰してこの世から抹消したかった。
一方で徳川家は存続を掛けてこれをあっさり承諾して薩軍の鼻をあかした形になった。
ここで一方は武力を抑えてその方向を対外的な軍事活動に向かう努力をすれば後の西南戦争は起きなかったかもしれない。
また一方で300年の歴史を一家系で支えた重みを「これからの時代に向かって考える」指針を提示する事ができたら鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は起きなかったかもしれない。
完全に「たら/れば」でしかも現代の温い時代の中での考えなのだから「アホか!」って言われるかもしれないし、自分としては「だって竜馬は途中で投げ出したんじゃなくて暗殺されてしまったのだからどうしようもないではないか!」のほうが大きい。
もし生きていたらきっとここでも大鉈を振るってくれたのだと確信しているが、これこそ「たら/れば」ですな。
とにかく、大政を奉還した慶喜は諸侯会議の為の上京時に、討幕派から辞官納地(所有地没収)を求められ、京から大阪に下って作戦を練る予定だった。
しかしそれを反旗と解釈した幕府派の諸侯らを慶喜が制止し切れすに、新政府打倒軍になってしまった。
慶喜という人間は、周りの重鎮達を抑える役回りを常にしていたという意味では、独りよがりの悪人ではないとは思うのだが、結局は抑えきれずに自分が主長となってしまったのだから、やっかいな権力者である。
その鳥羽伏見の戦いで江戸に脱出した慶喜を待っていたのは討幕派の追い討ち。
江戸での無血開城要求である。
しかしまた慶喜はあっさりと受け入れて水戸に引きこもる条件を呑んだのだが、さらに燃え上がる幕臣達をここでも抑える事が出来なかった。
この暴発が彰義隊の結成であり上野戦争の始まりである。

【09.西郷隆盛像】
いわゆる「上野の西郷さん」。
1898年序幕だから110年以上も前の銅像。
なぜ上野に居るのか?・・・・って?
鳥羽伏見の戦いや彰義隊との上野戦争を制圧する新政府(官軍)の参謀=総幕僚長が西郷隆盛だった事もあって、実質的な武家政権の滅亡を果たした功績と共に祭られた。
【10.徳川慶喜の墓】
徳川家といえば「徳川将軍家霊廟」。
徳川家といえば増上寺&寛永寺。
つまり歴代の徳川将軍は没後徳川霊廟に葬られる・・・・ハズ。
何で慶喜さんだけ谷中霊園?
それは慶喜さんが仏教から神道に改宗したから。
従って葬儀は神式で執り行われ院号も無く谷中霊園に眠っている。
まぁ、格好いい・・・っちゃぁ〜格好いいけど・・・・。
でもやっぱあんたのせいで多くの血が流れたのも事実なのよ。
やっぱ好きでないわ・・・・。
【11.陸奥陽之助(宗光)邸】
「両刀を脱しても食えるのは君と僕だけさ」
竜馬が神戸の海軍操練所に志願してきた若き紀州藩士の陸奥陽之助に語った一節だ。
その世界観と先見の明を見抜いた竜馬が目を掛けた人物である。
長崎で茶の輸出を一手に握っていた女将で大浦慶(おおうらけい)が居る。
男好きの彼女の余興である「人間を商売の担保に取ってみたい。それもいい男を」という豪傑さに惚れた陸奥陽之助は自ら海援隊の資金繰りの為にその担保になったと言われる。
維新後の伊藤博文政権時代には、それまで15カ国で結んでいた不平等条約の全てを条約改正した。
幕末の志士からは外れた功績だが、一時的にせよ間違いなく竜馬の片腕となった。
現在のモルタル&サッシ建築の中でこの様相は怖いよ・・・・。
昔はこうした洋館風というか、一枚ガラスというか、普通だった気がするのだが、こんな街中にあっても夜になったら怖いぞ・・・・きっと。
【12.吉田松陰脱藩の道】
突然だが千葉県に飛ぶ。
たまたまそういうタイミングだったんだから仕方がない。
吉田松陰22歳。
九州遊学・江戸遊学と見識留学の中で知り合った宮部鼎蔵・江幡五郎らと東北視察の計画を立てる。
当然藩の許可が必要なのだが、これこそタイミングが合わすに(手続きを面倒がった結果)、「旅の断念」か「無許可で出発」かを迫られた松蔭は「(3人で行こうと約束した)義を守れずに武士と言えるか」と訳の判らない判断から無許可=脱藩してしまう。
その脱藩して茨城・会津・弘前と視察に向かう際に立ち寄ったのがこの本福寺という事らしい。
余談だが、江戸に戻った後、脱藩の罪で家禄没収となるものの、全く懲りずに、後に有名な下田の密航失敗事件を起こすのだった。
この時、竜馬17歳。
やっと剣の才覚を見出し、日根野道場にて小栗流の剣術修行に汗を流す日々。
まだ小栗流免許皆伝/小千葉道場留学に向けて動きを見せる一年前であった。
今日は4月だというのに気温が24℃だと!まるで初夏だ。
という事で歩くのも面倒になってきた事だし、ここは愛車リード100で回ってきる事にした。
【13.勝海舟金玉事件!】
勝海舟は子供の時分、犬に金玉を噛まれて大怪我をした。
当時は命に関わる大事件であり、父親の小吉はこの能勢妙見堂で回復祈願を続けた結果、奇跡的に一命を取り留めたというお話。
ちなみにこの傷だらけの穴だらけのリード100が自慢の愛車!
その逸話を祭った胸像がこれ。
【14.勝海舟誕生之地】
両国小学校の隣に両国公園という公園がある。
江戸東京博物館から5分程度、両国国技館からでも7分程度の場所にある小さな公園だ。
ここが勝海舟が生まれた男谷家の屋敷跡だ。
【15.中浜万次郎宅跡】
高知県でも会う事ができなかったジョン万だ。
江戸の土佐藩下屋敷に住み、勝海舟の下で海軍操練所で教鞭を執っていた人物。
竜馬とは同郷の好で話が合い、竜馬はジョン万の教えによって飛躍的な知識の向上を遂げた。
もし当時の軍艦奉行という恐れ多い肩書きを持つ勝海舟が居なければ出会う事は無かったかもしれない。
なんか幕末の史跡って何故か「現在は○○小学校の敷地内で・・・」とか多いんだよな。
入り辛いんだよ・・・日本の防犯はすごいぞ!って思う位に視線が痛いんだよ。
それも教師とか関係者だけじゃなくて、近所の爺様や配達の若者、工事のおじさんなどなど、
「何でおめ〜みたいな強面の野郎がウロついてんだよ?」
・・・・ってな視線がさ。
この時も、ちょうど集団で近所に出かける様でワラワラと子供らに囲まれた。
「ん?いつの間にか知らねぇオヤジが混じってるぞ!」
と一斉に警戒態勢に入る引率者。
・・・・だから・・・・違うんだってば・・・・・史跡だってば・・・もう・・・。
【ちょいと休憩た〜いむ!】
北砂小学校から南砂緑道公園へ向かう最中、前方で角ばった車がモタモタと走ってる。
「めんどくせ〜な〜・・・・」と思いながら後ろに張り付いてみてビックリ!
うっそ!?!510だ!!
ちょうど自宅だったらしく停車したので、思わず止まってしまった。
あたし「510ですか!珍しいですね!」
所有者「(よほど言われ慣れているのか?まんざら〜)」
久しぶりに見た本物の「DATSUN」
L4の1400GLだったけど懐かしさ一杯!
だってSSSなんか小学生だった当時でさえ滅多に見たこと無かったし。
だからGLあたりが一番親しみがあるのよね。
あたし「(エンブレムが)ダッツンを見たのは20年ぶりくらいですよ」
所有者「いきなりダッツンと言ってくれる人は余り居ないよ」
とニッコニコ!!
にしてもビックリなのがこの程度の良さ。
ピカピカだ!!
ナンバーをデジタル処理してもメッキバンパーに写り込んでしまうくらい磨き上げている。
どれだけ大切に、そしてお金と時間を掛けているか!が一目瞭然だ。
Koitoのフラット丸目なんて、
どんなに欲しくても、もう新品では手に入らない代物!
自分のケンメリも丸目4灯だったから、
フラットに変えて「かっけ〜!」って感動していた。
シビエが高くて買えなかった時代だ。
ネジ留めのグリルやレンズがワクワクものだ!
うっかり工具を落としても下から拾う事が出来た時代。
スッカスカのエンジンルームです。
棺桶ヘッド、
機械式オイルポンプ、
バイメタルリレー、
ポイント式デスビ
もう泣いちゃう!!
これはもう資料の域だな・・・・・って事で、
オリジナル画像は4MBになりますので勝手に取って下さい。(→)
(エンジンブロックの)「マウントブラケットの下は地面だよ!」って言っても今の人は信じないんだろうなぁ・・・・・。
社会人になって初めてのお仕事は、このキャブをバラす事でした。
あたしにとってこのキャブは正に師匠!なんですわ。
何百回バラして何百回組み立てた事か。
おかげで今でも構造が頭の中で図面になっています。
だからこそ新しい設計に活かせるのだと経験した30年前の出来事でした。
デッカいカタツムリ(エアクリーナー)はキャブの上に乗っているだけなので、
左のステーで止めておかないと走行中に首ふり人形になってしまうのでした。
今から考えると「そんなムチャな!」ってなブローバイだし、
インマニのメクラが思いっきりボルト刺さってるし!
これで”排ガス規制車”って謳ってたんだから良い時代でした。
調子にのって車内へ。
「中も撮影させてくれって人は始めてだよ」
と満面の笑みのオーナー。
ドアの開閉も、ガツン!バン!って感じ。
今のようなパフッ♪ってなソフトなタッチではないので
怖くて閉められないかもしれませんな。
右のクイズの答えは・・・・・・そのままにしときましょ!
ってな訳で小一時間ほど予定外の行動をしてしまいました。
あ〜楽しかった♪
やっべ!危うく目的忘れるとこだった。
50年前の郷愁から150年前のロマンに馳せよう!
【16.長州藩砂村抱屋敷跡】
長州討伐の前年、幕命によると解釈した長州藩は、関門海峡を往来する外国船を一方的に無差別攻撃した。
これに対抗したイギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合軍が長州藩に壊滅的な打撃を加える。
これが下関戦争なのだが、その際に使用した大砲を製造したのが、ここ松平藩主邸内らしい。
前田砲台の80斤加農砲(カノン砲)は全長3500mm。
このレプリカだとすると1/3の模型ってとこ。
でも一方でイギリスに奪取された長州砲は1850mm。
このレプリカならほぼ原寸なのか。
どちらを指しているのか?これ以上は判りませんでした。
【17.渋沢栄一宅跡】
一橋慶喜に宮仕えした経緯もありながら実業家の雄として天保から昭和までを駆け抜けた人物。
財を私利とせずとして財閥を形成しなかったところが岩崎弥太郎との大きな違い。
活躍は明治政府樹立以降なので直接竜馬との繋がりはないのだが、何と渋沢栄一は千葉門下生だったので竜馬の後輩にあたるのだ。
【18.佐久間象山砲術塾跡】
1850年松代藩下屋敷があったこの地に砲術塾を開き勝海舟が入門する。
竜馬が勝海舟の弟子になる12年前の事である。
【19.西郷隆盛屋敷跡】
西南戦争に至ってしまう4年前まで陸軍大将であった西郷は、
云わば”日本国軍隊の最高司令官”である。
当然、東京で執務を行う必要がある事から居を構えたのがこのあたり。
2、633坪というと93m四方の敷地に住んでいた事になるので、個人宅としては相当な広さだ。
しかしながら「自分は商人ではない」と私財を増やす事はせず元値で売却したという。
上の写真の左下の立看を拡大したところ。
竜馬の海援隊給料の均一化といい、先の渋沢栄一といい、
現代の我々には想像もつなかい志に支えられていたんでしょうなぁ。
【20.吉田松陰終焉之地】
現在は「十思公園」という小さな公園であり、昼休みにはサラリーマンがタバコをふかして休憩する場所になっているが、ここはいわゆる「伝馬町牢屋敷」のあった場所。
つまり吉田松陰は獄中処刑であった。
佐久間象山の門弟でもあった松陰は密航失敗で伝馬町牢屋送りとなり、約半年間留置の後に処刑された。
井伊直弼の「安政の大獄」の犠牲者の一人である。
興味深い数字と見取り図を発見した。
この伝馬町牢屋敷の敷地面積は2、618坪と西郷さんの私邸と同じ広さだった。
ここに看守100人と囚人400人の最大約500人が詰め込まれていたそうな。
@ | 町人 |
A | 無宿人 |
B | 遠島待ち人 |
C | 女 |
D | 上士もしくは相当の僧侶・医師 |
E | 下士もしくは相当の僧侶・医師 |
F | 農民 |
G | 切腹場 |
H | 試し切り場 |
I | 拷問場 |
と、なっているそうな。
そこで囚人の1人当たりの寝起きするスペースを計算してみると、
広めに見ても全体の1/10程度。
最大400人だったとすると、
2618(坪)=8640(m2)/10/400人=1.4m四方で、
丁度、隙間無く横になれる空間だ。
しかしこの時代は牢名主という特権囚人が居て半分のスペースを取っていたというから、
金銭面や身分的に弱い囚人は横になる事すらできなかったという。
しかも人数が増えると牢名主のもとで人減らしが行われ、嫌われた囚人から密かに始末されて病死として片付けられていたようだ。
いつの時代も犯罪は割りに合わないようです。
【21.中江兆民の墓(青山霊園)】
さて、青山霊園に来た。
ここでは10人の墓参りをする。
先ずは中江兆民。
高知県で誕生地を訪ねたが、終焉は青山墓地に眠るとは知らなかった。
場所:1イ−1−24
【22.大久保利通の墓(青山霊園)】
場所:1イ−2−15〜17
ここは探さなくてもすぐに判るほど広い範囲だ。
正面の利通の傍らには、妻:増寿子、長男:利和らも眠る。
【23.川路利良の墓(青山霊園)】
場所:1イ−4-1〜3
日本国警察の生みの親、いや、実行者というべきか。
発想は欧米視察後の西郷従道によるものだが、その機構と役割を純粋に捉え・考え・悩み、国家治安の指針を作り上げた人物。
治安の取り締まりというとこれまでは岡っ引きがやる事で木端役人の代名詞だった。
そこには官僚のご機嫌伺いと私欲をむさぼる輩が横行する無秩序がまかり通っていた。
ポリスとは、民の為に働き、民に尊敬され、国家を信頼に導く統制集団であるべき。
常に民の身近に存在すべし、常に民の言葉に耳を傾け、民の日常の指針となるべし。
また逆に官僚の不正を暴き、弾圧に屈せず、断固正義を貫くべき。
この理想とも言える論法をニッポン国に持ち込み、特に内部監査というそれまでの日本には無かった考え方を定着させた訳だ。
川路利良とはそうした難題を一途に遂行せしめた人物と思っている。
師と仰ぐ西郷隆盛率いる西南戦争鎮圧に対して、国家安定の為に胸を引き裂かれる思いで事にあたったという。
【24.フルベッキの墓(青山霊園)】
場所:青山霊園外人墓地
フルベッキ(フェルベック)。
オランダ人宣教師。
佐賀藩の英学校、致遠館で教鞭をとる。
維新に貢献した訳でも活躍した訳でもないこの外国人が何故取りあげらるのか?
それは、なんとも夢のある(ふざけた?)一枚の写真のせいなのである。
致遠館の教え子達と一緒に撮影されたとされるこの写真。
そのまま見れば「ふ〜ん・・・・って知らないし!」で終了なのだが、
そこの写っている人物の名前がスゴイ事になっている。
フルベッキの教え子であった岩倉具視の息子(具定、具経)、伊藤博文、井上馨などは一緒に写っている可能性はあるが、勝海舟、江藤新平、村田新八らは無いっしょ!
川路利良も陸奥宗光も坂本竜馬も・・・・明治天皇って・・・・。
近代の調査では、撮影時期は1868年(明治元年)と断定されたらしい。
坂本竜馬の没後1年である・・・・・・!!
というか、もっと常識的に考えて、もしこの写真の人物達がホンモノならば、現代ではこの写真を知らない日本国民は居ないのはないか?
という位に有名な写真になっているハズである。
実は私の視点としては、竜馬からフルベッキにたどり着いたのではなく、従ってフルベッキ写真なんて知らなかったのよね。
それでは何故?と言うと、岩倉使節団を成功させた裏舞台の功績者として浮上したから。
岩倉具視については「どっち付かずの策士」の認識だが、不平等条約改正の為に(大隈重信経由で)フルベッキと交流を持った事に興味をひかれた訳。
念のために記しておくが「ふざけた写真」というのは、決して当時のこの写真を撮影した関係者を指しているのではない。
この写真をもって「竜馬だ、明治天皇だ」とデタラメな人物名称を勝手につけた上で、(→)
それを陶板にして販売している業者であって、いわゆる悪徳商売のネタにしている事を指している。
尤も有田焼の陶板というだけで数万円の価値になるらしいので、
詐欺的価格というよりは販売数を伸ばす題材として悪徳利用している業者というべきだろう。
繰り返すが、この写真自体は単にフルベッキと致遠館塾生達の集合写真であって何の罪も無い。
【25.西山加尾(平井加尾)の墓(青山霊園)】
場所:1ロ−14−9
親友の平井収二郎の妹で竜馬の幼馴染。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では平井加尾が架空のお田鶴様になっている為、平井収二郎も含めてよく知らないのが実情。
【26.西郷寅太郎の墓(青山霊園)】
場所:1イ−11-22
3番目の妻のいとの長男で西郷隆盛の嫡男。
隆盛の長男は2番目の妻の愛加那の長男で菊次郎なのだが、島(奄美大島)の女との結婚は認められない掟があり、嫡男とは認められなかった為。
陸軍大佐。
ちょうど真後ろにTMT(東京ミッドタウン)がそびえ立つ。
【27.植木枝盛の墓(青山霊園)】
場所:1イ−11-12
高知県高知城西側の植木枝盛旧邸を訪れた事があるが、
枝盛も青山に居るとは知らなかった。
【28.後藤象二郎の墓(青山霊園)】
場所:1イ−13-24
こちらも高知県の生誕地を訪れた事があるが、
やはり最後は青山に居るとは知らなかった。
【29.犬養毅 の墓(青山霊園)】
場所:1ロ−8-12あたり
あの五・一五事件の当事者。
昭和7年5月15日、大日本帝国海軍青年将校の反乱による首相官邸での射殺事件だ。
大正デモクラシーの風潮は民主政権への期待を反映して軍縮の傾向を強めていった。
政治家だけでなく庶民が軍反対の声を上げるようになると、若き将校達はこれからのニッポンについて政治はどう舵を切るのか?を迫ったのだった。
そして思わず暴発という最悪の結果を残す事になったのだが、それでも犬養の人間性は「話せば判る」と有名な言葉を残し、死の直前まで反乱将校たちを庇ったという。
ところで何故「警視庁の森」に犬養毅が居るのに川路利良が居ないのか?が判らない。
もし設立自体が時代ではなかったとしても川路利良にはこっちで眠ってもらうべきではないのだろうか?
なんだかとっても川路長官を不敏に思うのは私だけなのだろうか?
【30.有村雄助・有村次左衛門・海江田信義(有村俊斎) の墓(青山霊園)】
場所:1ロ−12-7〜10
有村俊斎に関してはニュートラルな気持ちでいたいので、感情が入っていない論文だけを読むようにしている。
生麦事件を起こしたのも、久光の「切れ!」の命令があればこそであり、主君第一主義は当時は当たり前と考える。
ただ直情型だった事は確かなようでそれを忌み嫌う派と相容れない様相もあった事は事実なようだ。
三弟の次左衛門が大老の井伊直弼を桜田門外にて斬首。(次左衛門も深手を負い自害)
次弟の雄助は挙兵伝令で京に向かう途中、自藩に捕縛され切腹自害。
そんな壮絶な過去を持つ有村兄弟の長男として、維新後さまざまな官職をこなしながら懸命に生き抜いた。
【31.板垣退助の墓】
さて、愛車リード100での紀行その2。
前回は割りと東側の中心部を攻めたので、今回は外周を制覇する。
先ずは自宅から品川まで一気に走破。
品川駅を過ぎたR15の右手に立派な鳥居が見える。
左脇にバイクを止めて、都内の歴訪で唯一の階段。
境内右手の奥からグルッと反時計回りに進むと板垣家の墓所がある。
一番奥が退助の墓だ。
その右手には例の言葉が。
【32.吉田松陰墓所】
なんか大きな組織体があると思ったら国士舘大学だった。
門前にバイクが駐輪していたので紛れてラッキー!
しかしまぁ、りっぱなお社だこと。
受付で聞いて見た。
あたし「松陰神社というくらいだから松陰さんだけのお社?」
宮司「かつて長州藩主別邸であったかの地に安政の大獄で刑死した松陰の魂を鎮魂する目的で、高杉晋作・伊藤博文・木戸孝正・山縣有朋等の松陰の門人によって当地に祭られました」
あたし「・・・・・へぇ・・・・」
要はすごい人!って事だ。
だって功績で言えば勝海舟も西郷隆盛も同等なハズだし、こんな立派なお社は無いもんなぁ・・・・・・。
墓までの参道に祭られた像。
・・・・の割には質素な墓石だ。
松陰の為の神社なんだから逆にこの数十倍あっても誰も文句は言わないだろうに?
松陰神社を出て戻ろうと歩き出すと右手に「桂太郎墓所」を発見。
今回のリストには入れていなかったが折角なので参拝。
誰?・・・・って?そうだね・・・。
明治後期の内閣総理大臣・・・・でいいんではないでしょうか。
伊藤博文内閣総辞職後の政局を束ねる人物はそうそう居ない。
天皇勅命により山県有朋・松方正義・井上馨・西郷従道らの話合いで井上馨組閣を打ち出したがご破算。
結局、桂太郎を総理大臣として推挙する事で大命が発せられ明治34年に桂内閣発足。
・・・・ってな人。
【33.井伊直弼墓所】
松陰神社から1kmほどの豪徳寺には井伊直弼の墓所がある。
まぁ〜嫌われる、嫌われる・・・・・これだけ全国民から嫌われる幕閣も珍しいだろう・・・ってくらいに嫌われる人だ。
実際に推し進めた結果を見れば当たり前だとは思うが。
何というか「ここさえ乗り切れば何とかなる」的な強攻策を重ねるうちに引き返せなくなったような・・・・感じ。
自分でも冷や汗をかきながら「まだダメか!もっと強気が必要なのか!」と自分のケツを叩きながら突き進んだ・・・・感じ。
逆らうヤツは暗殺すれば障害はなくなる的な安易な発想の末に自分が暗殺されてしまった・・・・感じ。
一環した開国主義者であり列強の脅威を感じ取っていた数少ない逸材であった事は確かであり、それは慶喜さんと同じだけど、結果、大量の虐殺と多くの血を流した事は事実なんだから、やはり許す訳にはいかないわなぁ。
にしてもこの面積全部が井伊家の墓所!
【34.旧岩倉具視邸】
一気に早稲田まで飛ぶ。
早稲田大学の工学部を挟んだ向かいに旧岩倉具視邸を有する玄国寺書院がある。
高知・京都巡りでですっかり板に付いた、
「こんにちは!史跡を巡っているものです!こちらに旧岩倉具視邸があると聞いてお伺いしてます!」
堂に入ったしゃべりをすれば相手もそれなりに話してくれるものである。
「すみませんが中は公開していないんです」
に概観だけで構わないので見せて欲しい旨を伝える。
公開していないところは当たり前にあるのだから。
しかし次の言葉で「え?」と思い次に何かイラッとした。
「現在居住しているもので」
いや、判るよ。
武市半平太旧邸だって植木枝盛旧邸だって現在も人は住んでいる。
だけど何かなぁ・・・・ずっと思ってた。
これだけ歴史的価値のある資産を個人が好きに扱ってもいいのだろうか?
だってある日ナイフで柱を削ったって怒られないし、
ペンキぶちまけてもバレないし。
(もちろん荷物勝手に置いちゃっても)
史実上に名を残す歴史的建造物ってそんな事でいいの?
何か納得できないのだよ・・・・・。
国レベルへの提言が必要なのか?
それともこれ以上はノーコメントにすべきなのか?
【35.小栗上野介墓】
今度は池袋は雑司が谷。
青山霊園に続いて都の霊園である雑司が谷霊園である。
都の霊園はいわゆる墓場扱いではなく、あくまでも公園。
だから自由に出入りが可能だし監視もしっかりしている。
さすがに児童が遊ぶ所は少ないが・・・・・。
その中の一発目は管理事務所から一番近い小栗上野介の墓。
歴史には表と裏がある訳ではなく、どちらも史実として語り継がれるべき時間軸だ。
しかし人間の許容はそう深くはなく、どちらかを選ばなければ覚えられない事もある。
坂本竜馬と小栗上野介は結局お互いに語ることも相対する事もなかった。
しかしその行動は完全に一致していたといっても過言ではあるまいと思っている。
討幕の為の軍備を経済から備えようとする竜馬。
佐幕の為の資源を経済から支えようとした小栗上野介。
目的は正反対だが思考回路が同じだったと言うべきか。
だから竜馬にとって経済感覚のある三岡八郎を可愛がり、小栗にとって同様の三野村利左衛門を鍛え上げ、後の鳥羽伏見の戦いでお互いの資金調達の手腕を発揮するのであった。
時代の流れが一歩間違えていたら竜馬の名前など微塵も出てこず、小栗上野介が英雄になっていたかもしれないと考えるとゾクッとしません?
【36.千葉定吉/重太郎の墓 】
いや〜、久しぶりにじっくりと拝んでしまった。
千葉周作の弟で千葉定吉が率いる小千葉道場(桶町道場)の主とその長男の重太郎の墓所だ。
この2人が居なかったら竜馬の運命も違う方向にあったかもしれない。
特に家長である重太郎のおっとり加減と一本気加減、そして竜馬という人物を純粋に尊敬し敬愛する心を持っていた人物であったがゆえに歴史は動いたのだと思っている。
ところでフッと気がついた。
さな子は何処?
帰宅後に調べて知った事と疑問。
1:維新後のさな子は千住で「千葉灸治院」を開業し1896年59歳で没。
2:死後知人らによって谷中霊園に土葬された。
疑問その1:何故千葉姓のまま千葉家の墓に入れなかったのだろう?
そもそも千葉家の墓所を探してみたら分家毎にバラバラに埋葬されているようだった。
疑問その2:何で?
3:生前お客でもあり懇意にしていた小田切謙明の妻豊次が無縁仏となってはいけないと山梨県の清運寺に分骨した。
疑問その3:何で無縁仏になる可能性があると思ったのか?
4:谷中霊園の管理者が係争の末に手放して不在になってしまい、そのままWWUの敗戦処理で、管理不在墓は無縁扱いになってしまった。
5:昭和25年に谷中霊園の無縁遺骨はすべて八柱霊園の「谷中霊園無縁塚」に葬られた。
という事で疑問が一杯あるのだが、とりあえず八柱霊園の「谷中霊園無縁塚」を尋ねてみようと思う。
また調査の途中で発見した資料が一つ。
足立区教育委員会が発行している「足立史談」という発刊物の第399号にこんな記事が掲載されていたので合わせて参考にした。
【37.中浜万次郎墓】
ジョン万も、へぇ〜!である。
最終的には故郷に帰らずこの地で終焉を迎えた訳だ。
一漁師に過ぎなかった万次郎は無理やり英語を覚えさせられるハメになり、
帰国後はその語学力がやっかみの原因となって氏族から虐められ、
帰藩するも政府命令で呼び戻されたり・・・・とこれだけ数奇な運命を辿った人物も居るまい。
【番外:その他】
雑司が谷霊園の場合、事前にパンフレットに著名人の墓所が記載されている。
それによるとちょっと会いたい人物が何人か居たので寄ってみた。
先ずはラフカディオ・ハーン。
「耳なし芳一」に代表される「怪談」を纏めて発表した小説家。
確か小学生時分の教科書に掲載されていて記憶しているのだと思う。
だって怖ぇ〜じゃん!耳削がれんだよ!何で耳だけ忘れんだよ!怖ぇ〜!!
竹久夢二。
画家。
大正ロマン⇒大正モダン・・・猫・・・切手・・・くらいしか知らない・・・・。
夏目漱石。
・・・・へぇ〜・・・・。
【38.練兵館跡】
九段下に飛んで靖国神社にやってきた。
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最初に勝手に宣言しておくのだが、この歴訪はあくまでも幕末維新に関わる史跡巡りをしてるのであって、作家や画家のような文化人に関しては寄り道はする事はある。
しかし明治以降の戦争に関する調査・研究・歴訪をする予定は今現在は無い。
従って自分にとって靖国は「イコール国家」との意識は全く持っていなく、ただの神社仏閣の一つでしかない。
まぁ、平たく言うと、WWU以降の戦犯だ侵略だ・・・・だのは全く興味がないので例へそれが3歩先にあっても寄らない。
もちろん東京裁判に関しては誰でも一家言はあるだろう。
しかしこの歴訪シリーズにおいては今後も触れる予定は全くない。
ちなみにこれは青山における木村兵太郎だろうが雑司が谷における東条英機であろうが同様である。
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観光バスの大型駐車場はすぐに判ったがバイクは見当たらない。
当然のようにワラワラと立っている警官に聞いて見る。
「バイク止めたいんだけど」
「大丈夫なハズですが係りの方がそこに居ますので聞いてください」
駐車場係りまで行って聞いて見ると、
「その植え込みのとこに止めて下さい」
「えっ?この木の下に止めていいの?」
どうやらバイクで靖国参拝を試みる人自体が居ないらしい・・・・。
あ〜そうなんだぁ・・・・という訳で駐車料金タダ!
先ずは練兵館跡から。
拝殿まで歩いて警備員に聞くとこの右手だとすぐに教えてくれた。
千葉門と並んで「技の千葉」「位の桃井」「力の斎藤」に代表される江戸三大道場の一つ、斎藤弥九郎の練兵館跡。
門下生には、塾頭を務めた桂小五郎のほか、
高杉晋作
井上聞多
伊藤博文
品川弥二郎
などがいる。
【39.大村益次郎銅像】
どんだけデッカいんじゃ!ってのは下の人と比較してもらうと判るが、高すぎて撮影できません!
なんでこんなデッカい像なの?
鳥羽伏見の戦い後の戊辰戦争において3千もの彰義隊が上野寛永寺を占拠した。
本来親分であるハズの勝海舟もこれを抑止できない状態が続き、これを鎮圧するべく新政府は長州藩兵学者の大村益次郎を起用した。
大村益次郎は軍装備の増強に努め組織を大幅に改編、その結果、討伐軍はわずか一日で上野戦争を終結させた。
この功績が戊辰戦争鎮圧の弾みとなり新政府の軍隊統一の礎となったのである。
その後は新政府の軍隊組織確立の中心人物として事実上の日本陸軍の創始者となったのであった。
さて一方で靖国神社だが、そもそもの発祥は戊辰戦争の際に戦死した軍人を葬る社として作られた。
よって当初は国の管轄ではなく陸軍省が管理していた。
軍隊からすれば大村益次郎の功績がなかったら新政府さえも危うかった事から最高級官僚としてこの地に祭られたのである。
ちなみに暗殺についてであるが、
私がニュートラルでいたかった海江田信義だが、直情型であるが故に短慮との欠点もある彼は、
上野討伐の軍議の中で「君は戦を知らん」と言われた事を最大の侮蔑と受け止めた。
多くの諸説で言われている事だから信用には値する史実なのだと思う。
もしそうだとしたら暗殺の指示者は誰なのか?
海江田信義である可能性は非常に高いと考える。
靖国通りを挟んで靖国神社の反対側、武道館の入り口に「北の丸公園」がある。
【40.元帥大山巌銅像】
西郷隆盛の従兄弟(いとこ)でのちの陸軍大将。
寺田屋事件では、大山綱良に説得された大山巌は西郷従道らと共に生きて投降し、帰国謹慎処分となる。
この生き残りの多くが新政府の役職となったのである。
【41.品川弥二郎銅像】
新政府樹立に至る歴史をいま一度辿ってみよう。
@薩会同盟により長州を御所警護から外す。
A幕府が帝(みかど)に攘夷撃ちを確約した事により長州が馬関戦争を始める。
B4カ国連合に敗れるも「幕府の命なり」と賠償に応ぜず。
C幕府が第一次長州征伐を命ずるも薩摩応ぜず。
D薩長同盟成立。薩摩は最新武器・弾薬を長州に補給。
E幕府は(家茂病死もあって)第二次長州征伐に敗戦。
F薩軍をもって大政奉還・戊辰戦争・無血開城、そして新政府樹立へと続く。
さてこの中で「D薩長同盟成立」をもう少し詳しく見てみよう。
a)龍馬が薩長の和解を西郷と桂に(個別に)提案する。
b)土佐から中岡慎太郎、薩摩から村田新八、そして長州から品川弥二郎らがお膳立てをするも下関にて会談の予定を西郷が破棄。
c)竜馬が藩間の感情を経済から鎮める作戦に出る。すなわち薩摩は長州に対して(長州征伐に対する)武器弾薬及び搬送の船を用意する。対して長州は薩摩に対して京都滞在の薩軍の為に食糧の確保を行う確約を取り付ける。
d)京都薩摩藩邸にて同盟を結ぶ為に新撰組等から逃れて京入りする為の工作やらを村田新八・品川弥二郎らがお膳立てする。桂は「どうしてもこちらから(京へ)出向かなきゃならんか?」の不満に、竜馬の「わしはたかが長州37万石の為に動いている訳ではないぜよ」を受け入れて上京を決意する。
e)しかし両藩ともに(プライドから)口火を切れず10日が経過。
f)竜馬が薩摩を一喝。涙ながらの「長州が可哀相じゃ」に薩摩から進言して成立。
となる。
つまりは品川弥二郎は維新のさきがけとなる多くの功労者の先駆的一人であった。
【42.大久保利通暗殺の地】
この立て札はただの坂の由来である事は何度か歩いて通っているので知っている。
しかしその隣にある清水谷公園に「大久保公哀悼碑」なる記念碑がある事は知らなかった。
よって今回の散策より抜けてしまった。
まぁ、また今度来よう。
それよりも大切なのが実際の暗殺現場はこの坂の付近だったという事。
「無礼者!」と一喝するも無念の絶命。
動乱の最後を飾るには余りにも悲しい一幕となった。
1878年、今この現代からたった134年前の出来事である。
サラリーマンや超高級ホテルに泊まるお金持ちが通り過ぎる道端で、ちょっと恥ずかしいけど立ち止まって目を瞑り数秒間夢想してみる。
舗装もされていない森というべき細い坂道。
誰もいないひっそりと静まりかえった早朝だ。
朝の冷たい空気と木漏れ日が降り注ぐ中を一台の馬車が静かに通り過ぎようとしている。
大久保利通は今日も問題と課題が散在する政府の中にあって、最初に手をつける案件について思案にふけていた。
と、突然大声と同時に6人の暴漢が刃渡り90cmの日本刀を振りかざして正面から走ってくる。
咄嗟には何が起きているのか把握できない。
御者の悲鳴が聞こえて初めて逃げなければと行動するが、すでに馬車は逃げ場のない密室と化してしまった。
左の扉を開けて出ようとするもすでに暴漢が構えている。
右の扉を開けようと手を延ばすと先に外から開けられてしまった。
再度左を振り返り開いたままの扉から暴漢に向かって、
「無礼者!」
恫喝し終わらないうちに刃先で刺される。
馬車から転がり落ちた処を十数か所切られそのまま斬首絶命。
・・・・なんという事だ・・・・・こんな事なら従道の忠告を守って護衛を付けておくべきだった・・・・。
まだわたしがやらねばどうにもならない懸案事項が山ほどあるというのに・・・・。
これで吉之助さの処へ行けるのか・・・・行ったら最初に謝ろう・・・・とにかく謝ろう・・・・そしてゆっくりと説明して判ってもらおう・・・・時間を掛けて・・・・たくさんの時間を掛けて・・・・。
合掌。
【43.千葉さな子の墓】
【36.千葉定吉/重太郎の墓 】で調べた通り、
現在は八柱霊園の「谷中霊園無縁塚」に眠っている事が判明したのでさっそく訪れてみた。
管理事務所にて。
「谷中霊園無縁塚はどこですか?」
「ここは八柱霊園です」
・・・・・もう・・・うんざり・・・・(そしてなんやかやの末に)
「無縁碑はこのへんにたくさんあるので自分で探して下さい」
「はいはい・・・」
碑とか塚とかの命名は無いようだが、
「昭和25年より谷中霊園無縁精霊この地に眠る。昭和32年3月」
と記されている。
やはり戦後すぐに谷中から八柱に移されたようだ。
先の会話の中で、
「パンフレットに千葉さな子の記載はしないんですか?」
「著名人の記載はご親族の許可を頂いています。だから無縁の方はちょっと」
なるほど。
【2012年5月】
さ〜て「リードって便利だな♪」の第三弾。
自宅から一気に川崎まで走ってみた。
さすがに100ccのスクーターで一般道を2時間弱も走るとお尻が痛くなってくる。
小回りが利くし、クラッチ無いし、やっぱ足付くと安心なのだが・・・・・。
でも移動距離からしたらこの辺が限界だな。これ以上は疲労が溜まる感じがする。
【44.生麦事件第一発生場所】
事の起こりは1862年、島津斉彬の意思を継いで公武合体を唱えた久光が勅使をもって江戸入りをする。
ちょうど龍馬が脱藩したころである。
勅使の補佐と言いながらも圧倒的な武力を背景に帝の衣を借りた地侍と忌み嫌われ、本来一番欲しかった久光自身の政局参画は果たせなかった。
ガッカリしながら薩摩への帰路の途中、武蔵は生麦(神奈川県鶴見区)に差し掛かった時、リチャードソン他4名のイギリス人が図らずも行列を妨害する形になってしまった。
むかっ腹もあってか、久光は駕籠の中から「(そんな面倒くさいヤツは)切れ!切れ!」と手をヒラヒラさせて言ったという。
そこで有村俊斎である。
予てから御殿の役に立ちたいと願っていた俊斎は君命とばかりに瞬時に行動に出る。
たまたま先頭にいた馬上のリチャードソンを一刀両断してしまったのだった。
その現場がここなのだが・・・・おもいっきり普通のご自宅だ・・・・。
撮影するのをためらってしまう・・・・が勘弁してもらおう。
すぐ裏を旧国道1号(現在の国道15号)が通り、旧東海道の様相を呈している。
しかし本来の生麦という場所は何の特産も無いひっそりとした貧しい農村の一つであって、この事件がなければ、世の中に地名を知らしめる事もなかったといえよう。
【45.生麦事件トドメ現場】
話を元に戻すと、
この当時でさえ無礼打ちとはいえ異国人を殺生する事は幕府に対する逆心行為ともよべる愚かで危険な行為であった。
列強各国の武力と賠償責任の怖さを知っているからである。
リチャードソンは乗馬したまま胸から切り下ろされた形でその場から逃げた。
西に向かって約800m逃げたが力尽きて落馬する。
そこへ追いついた有村俊斎が「武士の情」とトドメを差し、リチャードソンは絶命した。
それがこの場所である・・・・・って無い!!
ビックリした!その現場のお社が無くなっていたのである。
バッカ野朗・・・・って思いながら、丁度測量していた工事のおじさんに聞いてみる。
私「この辺に生麦事件の第二現場があったんだけど・・・・」
工事「あ、それならちょうどあの辺ですね。確かにありました」
私「小さな御社もあったハズなんだけど・・・」
工事「それならここから100m程東に行ったところに移設しました」
私「ふ〜ん・・・それは工事が終わったらまた元に戻すの?」
工事「そこまでは知らされていません。すみません」
工事のおっさんの割には教育が届いているようだ。
ニッポン国文化の重要な史実を一自治体(とか企業とか)が自由にできる世の中においてはこの辺が限界なのかもしれないが。
【46.生麦事件トドメ現場の碑】
で、ここ。(詳細地図は巻頭の一覧表から確認してね!)
確かに真新しい御社発見。
英文も併記しているという事は、やはり観光で訪れる外国人も多いという事か。
【47.大久保候哀悼碑】
トンボ返りで国道1号を北上。
霞ヶ関から紀尾井町に入る。
紀尾井坂の隣、ニューオータニの正面だからもう場所は頭に入っている。
いや〜しかし参った!!
丁度到着した時間帯に豪雨に見舞われ、カッパの下もリュックの中もグチャグチャ。
カメラのレンズに雨が激しく当たり、このへんの写真が全部ボツに。
だから「正助どん」の石碑の画像はこれしか残ってなかった・・・・。
【48.桜田門】
井伊直弼が桜田門外で暗殺された1860年は、その他にはとりたてて事変は無かった。
桜田門外の変が3月で、それからの政局を298諸侯は息を飲んで見守っていたからだ。
いや、もちろん298は冗談ですがな。
要は薩長の2藩は、幕府が大老擁護で弾圧をより強めると踏んで、決起のきっかけを待っていた。
ところが幕府は沈黙を守った。
さすがに井伊の政策はヤリ過ぎだと思っていたからである。
特に薩摩は有村兄弟の死とその処遇に藩候への憤り、つまりは大久保利通に対する誠忠組の憤りはピークに達していたのだが、大義名分が無ければ武士としての理屈が通らず、例へそれが暗殺という手段だとしても藩を挙げて行動する事はなかった。
後に有馬新七らが寺田屋騒動を起こしてしまうが、すでにこの時にはその大半が討幕の雄藩としての自覚を持っていたのである。
も〜イヤ。
ズックがクチャクチャいってる。
この写真の前が川になってるでしょ!
ひどい豪雨だ。
皇居だから観光客より警官のほうが多いんじゃね?ってくらいに厳しい警備なのだが、この雨で濡れ鼠になるともう面倒臭くなってしまった。
警備の警官の前にバイクを止めて、
「門の写真を撮りたいんでここにバイク止めるからね!」
と一方的に宣言。
もちろんダメと言われたらすぐに退散する予定だったが、昼真っからカメラを抱えた濡れ鼠のキモイおっさんがヌッと立ってるのが目障りだったのだろう。
「いいよ」
と一言。
ラッキ〜♪とばかりにパシャパシャ撮って逃げるように退散。怖い怖い・・・・。
【49.南町奉行所跡】
千代田区有楽町にはご存知「大岡越前の守」で有名な南町奉行所があった。
江戸町奉行は現在で言う都知事なのだが、こと江戸においては幕政にも携わる幕府の重役であった。
ただその幕府の意向により権力集中を避ける意味で複数の人物がその職に就いていた。
そして仕事は一ヶ月単位の輪番制で捌く事になる。
裏方では自分が担当する案件の調査整理にあたっていた。
大岡忠相(ただすけ)は19年間ものあいだ南町奉行職に就き、有名な「三方一両損」などの名裁きを行った事になっているが実際には「白子屋事件」などかなりシビアな判決を出している。
「時代劇・人情・庶民・権力」というキーワードは脚本次第では人気ドラマになる可能性が高いと踏んでの事だろうから時代考証は二の次という事でよかろう。
JR有楽町の中央口を出ると丸ノ内線に繋がる地下入り口があるが、その裏側には石のベンチがある。
その右端にこのプレートがある。
それによるとこの辺一体から出土した当時の石をこのベンチに使っているのだそうな。
ヨッコイショ!と座るたびに300年前のお江戸城下の躍動が感じられるようで、なんとも夢あふれる演出ではないか!>やるな!東京都!
【50.北町奉行所跡】
そしたら当然「遠山の金さん」も行っとこ!
ご存知、桜吹雪の金さんは、名奉行と謳われた大岡越前の没後(1752年)から41年経った1793年に生を受ける。
つまりお互いに采配を振るった時間軸には約123年のズレがある。(ドラマでは同じ時期に感じてしまうので注意)
当時から刺青は任侠のものであり、奉行としてはあり得ないようで、若気の至りの出来事だったようである。
また名裁きの評判は本当だったようだが、実際のところ職務についていた3年間の間に目立った裁きは無かったようだ。
しかしその後隠居するまでに南町奉行も7年間務めた事からも稀に見る逸材のようではある。
まぁ、こちらも「時代劇・江戸っ子・権力・刺青」という人気の出そうなキーワードから時代考証は二の次のようだ。
JR東京駅八重洲口なのだが、大丸伝いに日本橋口に向かったビルの出口・・・・・とでも言うのだろうか?
駅構内の大丸の壁沿いに出口までいくと足元にあるのがこのプレート。
これは判りづらい!
泣きそうになったら八重洲口交番で聞いてみよう。
親切に教えてくれるぞ!!
【51.江戸城本丸/天守台】
いよいよ江戸最後の訪問地、皇居内の江戸城跡である。
まぁ、皇居自体がまんま江戸城なので本丸及び天守閣跡というか天守台が目的。
まずは大手門から入城。
と言っても、ここまで来るのに東京駅から外堀を歩き、大通りを渡って内堀に入ってお堀を渡って約1km。
時間にすると10分ほど歩くのだから、攻める目的でヤリ持ってここまで走ってきたらもう疲れて休憩タイムだな。
広すぎだろ!
門をくぐって200mの処に最初の監察区がある。
これが同心番所。
看板の説明によると大名の供の監視をしていたとの事。
どうやって?
大名が連れてきた人間を疑うという事?そんな事したら斬られるっしょ!?
判らん。
割りと下級の同心がこの職についたらしい。
左に折れて20m。
まぁ・・・書いてある通りの番所らしい・・・。
なんだ!この広さは・・・・・。
確かに100人が常時詰めていたとするなら
であえ!であえ!となったらこの広さは必要なのか。
しかし「であえ!であえ!」って「出会え!出会え!」って書くと意味が違ってくる感じだな。
百人番所から100m先に大番所という最後の砦がある。
ここから本丸入り口までは巨大な石垣に阻まれており、攻め登るのが面倒になる感じ。(それでいいんだ!)
同心番所の2倍の広さはある。
まぁ、最終チェックは人数も多かろうて。
これがその石垣。
ここを通らなければ本丸には行けない。
今は舗装されているし雨水も水路を通るようにできてるが、
当時は雨が降ればグッチャグチャの泥んこ状態の中を歩いて登城したんだろうな・・・・。
石垣を越えて本丸の入り口から天守台を望む。
本来ならこの公園一杯に建造物が存在していたのだった。
ちょっと時代は違うが、ご存知「松の廊下」の跡。
跡というより、建物があればこの辺だったという意味。
監視塔兼武器庫。
戦闘時は防護壁越しに攻撃できる要塞と化したらしいのだが、
こんな綺麗な白塗りにしてたら照準合わせやすくないのかな?
それと標的にされる目的で次の作戦の準備をするのだろうか?
自分だったら武器・弾薬・食料という大事な備品は陣地の中央に据えるけどなぁ・・・。
やっと天守台まで辿り着いた。
大手門から内堀沿いに歩くこと1km。
ゆっくり歩くと約15分である。
天守台を登り切った頂上(!)
意外に狭いな・・・・と思ったのだけど、城好きに言わせるとかなり広いのだそうな。
本丸を歩いた順序。
これによると・・・・
大奥・中奥・表はおおよそこんな感じの面積比になってそうだ。
これからすると、大奥の面積は(googleマップの縮尺寸法より)およそ150m四方と考えると約6800坪程度となる。
えっ?1万坪無いんだ?
あれ?確か西郷邸が15人程度の人数で2600坪だったよな?
400人収容の伝馬町牢屋でさえ2600坪だったよな?
大奥3000人!?・・・・絶対無いな・・・・・ってか、1000人だったとしても牢屋と同じ割り当てじゃん!?
大奥って囚人並の扱いだったのか?
やめた・・・・なんか薄ら寒くなってきたから、もうこれ以上の詮索はやめておこっと・・・・・。
天守台より本丸を望む。
ちなみに今日は新丸ビルの地下駐車場のバイク駐輪場に止める事が出来た。
26台しか確保できないので滅多に止められない場所。
警備員の監視付きで100円/hだから安心して止められるのだが、最初の一時間は無料なので、普段はバイク便の無料休憩場と化している。
困ったものだ。
しっかしこうして見ると戻るの面倒だな・・・・・。
【2012年6月】
【52.伊地知正治(青山霊園)】
場所:1イ−9-22
本当は場所が纏まって掲載できれば一番美しいとは思う。
しかし訪問には常に抜け漏れがあるのだから仕方が無い。
ある日何気に伊地知正治の墓をググッてみたのね。
だって当然鹿児島にあるものと思うじゃない。
だから調べても・・・・・って感じだったんだけど、青山霊園だと知った時は驚いた。
後で先生のHPで確認してみたらちゃんと記載があったよ。
自分の確認から洩れていたので「ついでに寄れたら寄るリスト」に入れておいた訳。
1828年7月生まれだから西郷隆盛と同い年、学年で言うと一つ下になる。
(西郷隆盛は1828年1月生まれ。ちなみに坂本竜馬は1836年1月(旧暦で11月15日))
目と足が不自由なハンデを追いながらも常人以上に精力的に幕末を駆け抜けたツワモノ。(と思っている)
西郷隆盛のよき相談相手であり心の拠りどころだった事は大久保利通と同様に西郷の宝であったことだろう。
常にナンバー3、4、5、6・・・・が居る事によって、ナンバー1、2が間違いを起こすことなく仕事を遂行できる訳で、明治維新の礎たる人間の一人である。(と思っている)
いや〜びっくりした。
なんてデッカいスペースなんだ。
こりゃ大久保候の面積とかわらんな。
やっぱ地元では名士様なんだよ。きっと。
【ちょいと休憩た〜いむ!】
行って来ました。
アキバで有名な大盛りの「あだち」
アキバに通う事35年、今まで行った事なかったんだよねぇ〜。
40年前からやってるらしいのだが・・・・・。
入ってみると待ち構えた様にオヤジがしゃべり始める。
うちは普通盛りで頼むと大変だよ。
お勧めは「ランチの10軽」だよ・・・・と意味不明な会話。
要するに、大盛りを頼むと2升の米が出てくるらしい。
だからその1/10が「10軽」といって一番小さい盛りらしいのだ。
それでも茶碗4杯分、男の昼食からすると1回お代わりといったところだろうか。
まぁ・・・・頼んでみる。
昼時なのに他に若者が2人・・・・たいしてウケけてないのか?
んで、これ(→)
よかった、これにしといて。
この一杯でもうお代わりできない。
から揚げはササミでヘルシーだが格段旨くもない。
ヘルシー?およそ似合わない言葉だ。
おでんとかき揚げとおひたしが一緒に盛られるし・・・・。
気持ち悪くなるくらいに詰め込んだけど・・・・もう来る事はないな・・・・。
【護国寺】
「雑司が谷」に行きながらその隣の「護国寺」には寄ってない。
有楽町から有楽町線で一本なので行ってみた。
一番出口はもう護国寺の敷地内。
交番の真前に出るので例によって警官の姿を見ながら境内へ。
青山霊園や雑司が谷霊園の場合は著名人墓所の位置が明記されていて、調査後に出向いたので事前に場所を把握できていた。
しかし護国寺の墓所の紹介サイトの殆どというより全く場所が明記されていない。
何故だろう?と思ったら、そもそもそれほど広くは無いのだった。
だからご本尊に続く階段を登る前の右手にある事務所に寄ると、このような印刷物をくれる。(→)
要はこの規模なので番号など不要という訳だ。
しかしネットで事前に調べたい場合はやはり不案内なので掲載しておこう。
今回はこの5名の御仁を訪ねた。
ところで5名の墓所はいづれも広大な面積だったのだが、その全てが門で閉じられていた。
誠に勝手な事なのだが、キチンと撮影できなかった事にちょっとイラッとして、参拝後に再び事務所に寄って僧侶に面会を求めてみた。
Q:何故門を閉ざしているのか?
A:その敷地内に他人を入れるか否かは檀家の配慮なので本坊の意図するところではない。
Q:しかしながらそれでは人物を慕って参拝せんとする全国の凡庸者が可哀想だとは思わないか?
A:檀家の意思を尊重すべし。
Q:至極、ただ一方で俗人ならざる運命を背負った系図としての自覚や如何?
A:問に至らず。諦められよ。
あれ?
そもそもオレってこんな問答に興味ないし・・・・・もういいや。
【53.田中光顕(護国寺)】
たなかみつあき。
那須信吾の姪で土佐勤王党の志士。
高杉晋作の弟子になったり陸援隊に参加したりと忙しい人物。
1867年の竜馬暗殺事件である近江屋事件では当時24歳ながら、現場に急行し数日生き長らえた中岡慎太郎から詳細を聞き取り記録する。
中岡の死後、陸援隊の副隊長を務め、維新後は岩倉使節団にも参加している。
一人の親分に従事して・・・・ではない為か?どうも小説等にはしにくいようで一般的には著名人には入らないのだが、薩長土の間を取り持つ(当時の)若手ホープという意味で活躍は著しかった。
(柵の外からズームで撮影)
【54.大隈重信(護国寺)】
なんつーかもう・・・・広すぎてさ、入れないと誰の墓石(ぼせき)だか判らないよ。
だってこんな感じだぜ!(写真右下)
目一杯ズームにしてやっと確認できたよ。
(絶対に一般参拝者の事なんて考えてないよな!)
第8代内閣総理大臣で早稲田大学創設者。
佐賀藩士。
フェルベック(あ〜何かこの呼び方好き)の佐賀藩校英学塾「致遠館」で教頭として教鞭を執る。
維新・革命期においては時代的に一歩遅く主だった活躍の場はなかったが、維新後にその真髄を発揮する。
同藩士である江藤新平に引きずられる事なく(!?)伊藤博文らを従えて大久保政権をバックアップする。
(実際には一時的にちょい引きずられたようだった)
第17代(大正3年)第二次内閣までの間に(途中で早稲田大学設立するも)外務大臣・農商務大臣等を務め政治のど真ん中に位置する。
【55.三条実美(護国寺)】
さんじょうさねとみ。
いや驚いた。
だってお公家さんだよ?
ぼんくらのバカばっかのお公家さんだよ?
東京府に居る訳ないじゃん!・・・・って思うでしょ?普通。
ただ私の公家感を一変させてくれた岩倉具視を従えた明治政府最高高官だから一目は置く事にする。
しかしそれは江戸幕府時代の身分が故に最高高官として位置した訳で、優柔不断以外の何者でもない感は否めない。
まぁ、穏健派であるが故に新政府が正論を貫けたと評価することは吝(やぶさ)かではないが。
唐菱花の家紋をつけた門。
これだけ立派な門は徳川慶喜さん以来だな。
で、何をしゃらくせぇ〜事言ってやがる!体で門から手を突っ込んでズームしたのがこれ。
ところでやっぱ「こう」は「候」じゃなくて「公」なんだ!?
五爵(ごしゃく)の順番としては「公侯伯子男(こうこうはくしだん)」だから三条家はやっぱ「公」なのか。
【56.山縣有朋(護国寺)】
やまがたありとも。
例の(?)山城屋事件で山城屋和助が自害したにも関わらず逃げ切った人物。
結局辞任はしたが西郷隆盛の口ぞえもあって人材を見込まれ2ヵ月後に復職。
にも関わらず(役職とはいえ)城山の戦いにおいて師と仰ぐ西郷隆盛に対して自決勧告するかね?
恐らく強い絆故の苦渋の決断と思いたいが、それでも余り好感持てず。(個人の意見ですがな)
冒頭でも述べたが、思わず坊主に苦言を呈した墓所がこれ。
荒らす気など毛頭ないのにね・・・・。
すべからく手を合わせて去るところだが、これではその気になれない。
【57.山田顕義(護国寺)】
やまだ あきよし。
陸軍少将。
松下村塾出身。
大村益次郎に西洋兵学を学び後継者として岩倉使節団に参加。
しかし欧米見聞後に徴兵制度に異議を唱え司法制定に従事し司法国家の礎を築く。
後ろに見えるのが、左がエアライズタワー(マンション)、右がサンシャインシティだ。
【58.勝海舟夫妻の墓】
たまたま仕事で蒲田に行ったのよ。
だったらついでに鎌田駅始発の東急池上線に乗っちゃえ!
って事で8つ目の洗足池(せんぞくいけ)駅に到着。
こんな小さい駅なのに改札には警官が3名・・・・ジロジロ見られる・・・・。
今日は何か変!?・・・・って思っていたのだが、オウム真理教の高橋克也容疑者の捜索網なのだそうな。
今日で逃亡17年+4日目とか?・・・・・おまわりさんも大変だな・・・・・。
でもこの事件、実はタイミングによっては人ごとではなかったのです。
1995年3月20日朝8時。
当時日比谷線を利用していた私の父親は当日たまたま30分早く出勤し、いつもの数本前の電車に乗ったのでした。
その30分後に地下鉄サリン事件が発生。
いつも8時に日比谷線に乗っている事を知っていた私は事件の速報を知ってすぐに実家に連絡。
無事は確認しましたが、普段通りに出ていたら・・・・・17年経った今でも思い出すとゾッとします。
被害に遭われた方々のご冥福とご遺族及び当該の方々の一時も早い復帰をお祈り致します。
えっと。
そもそも勝海舟がこの地に別邸を建てたのは、政府高官時代にたまたま休憩で立ち寄った洗足池周囲の風光明媚に魅了されて、維新後に居住地として移住したと言われている。
西郷隆盛との会合に用いられ西郷隆盛死後に私費で「西郷隆盛留魂碑」を建立した事でも有名。
「夫妻の墓」というくらいだから、どれだけ仲がいいのかと思ったら、事実はそうでもないらしい説も。
いやいや、そっちは(司馬遼太郎先生の小説にも出てこないので)知りたくないから詮索は止めておこう。
しかしこの開放感は何だ!?
そもそも寺でも墓地でもなく、公園の脇にいきなり存在する。
しかも柵もないので子供が公園から自転車で墓まで乗り入れる事も可!
勝海舟の遺言でこの地に埋めてくれとの事だそうだが、この生き方?閉じ方?
良いですね〜!!益々好きになりましたよ。
*ちなみに現在はお骨は無いそうです。(縁者が移したそうです)
勝海舟は1823年生まれ。
1899年に病死するまで76年間の生涯であったが、
西郷隆盛が城山で自決した1877年から2年後の1879年、
勝海舟56歳の時に西郷隆盛の死を悼み私費で建立した「西郷隆盛留魂碑」
西郷隆盛にとっては討幕へのきっかけを教授して頂いた恩師に相当するのだが、勝海舟から見れば単にアドバイスしただけの関係。
なのに何故私費で碑の建立?
それは、言う事と実行する事のケタの違いを十分に理解してた関係だったからだと思っている。
幕臣が「もはや屋台骨まで腐っている幕府なんぞに遠慮はいらねぇ〜」と切り口上を述べる驚きを、
「幕府なんざ無視して雄藩連合を大成させよ」と言われたと解釈し、後にその通りに実行してしまった西郷。
勝海舟はその実行力には心底敬服したと言う。
(立場上敵ながら)アッパレとしか言い様が無いとまで広言したそうな。
脚本家からすればその意図通りに演技してくれた役者はたまらなく愛おしいのであろう。
【59.伊藤博文墓所】
まだちょっと時間があったので近くの伊藤博文墓所に行ってみる。
洗足池駅からさらに2駅乗った旗の台駅で東急大井町線に乗り換え3つ目の戸越公園駅で下車。
あの有名な戸越銀座から1km弱南下した位置だ。
ここからJR西大井駅を目指して1kmほど歩いてみた。
1km弱ある商店街をプラプラ歩く。
ちょっと汗ばむ。何か平和だ。
到着すると閉門している。
てっきり神社だと思っていたので不思議に思いピンポン。
「あの〜参拝したいんですけど?」
「普段は公開してません。命日の10月26日に公開しますがその場合も品川区報に載せます」
要するに、ここは神社でも墓地でもなく、伊藤家の私有地らしい。
その土地に墓石を立てて墓地にしているらしい。
スゲ〜な。
慶喜公だって実美公だって閉門していたものの寺院墓地だから10m近くまでは近づけたぞ。
竜馬だって勝海舟だって墓石に触れられたぞ。
区報に載せるんだってさ・・・・もういいや・・・・。
【ちょいと休憩た〜いむ!】
国立歴史民族博物館に行って来ました。
当然幕末もありきと期待をして行ったのでこのスペースに埋め込んだのですが、結論から言うと「なんだそれ?」で終了でした。
どうも幕末に関しては別の場所でどうぞ的な感じを受けましたな。
でもまぁ、折角行ったんだから掲載しておきましょう。
本当は本編で詳細を紹介するつもりでいたのですが「休憩タイム」扱いにしておきます。
基本的に撮影OKなのは大変有り難かったのですがフラッシュがダメって展示物が多くて殆どの写真がブレてしまいました。
デジカメ買うときはフラッシュなしでどこまでピントが合うか確認する必要があるな。
前から知ってはいたのだが「どうせ佐倉地区の宣伝でしょ?」的な考えから関心が無かった。
しかしある資料のリンクから、ここが国立の歴史研究所である事が判り、その成果の一部を博物館として公開しているのだと知った。
え?佐倉の回し者じゃないんだ?
という事は全国的な事象に関して展示している施設なんだ?
って事はよ?幕末も当然あんじゃね?となった過程で寄ってみようかな・・・・と。
まぁ、広いスペース。
敷地自体は佐倉城跡を含む26万坪の佐倉城址公園内にある。
市立中学・高校も有する敷地のうちの4万坪を締めている。
その4万坪の中の1万坪が建てやなのだからビックリ。デカい!
見学できる棟は地上2階地下1階なのだが、研究棟は地上5階地下1階なのだそうな。
って事は延べ床面積6万坪?
移動するのに原チャリとか必要じゃね?
入館料420円を払って第一展示室へ。
いきなり縄文式骨角器がお出迎え。
なんか久しぶりだな・・・・こんなの見たの。
やっぱり小学校の遠足以来か?
こんな骨の矢じりでさえも、
@おなかが空いたぞ。
A動いている動物を食べてみよう!
B捕まえるには武器があればいいな。
C投げて刺されば楽だな。
D刺さっても抜けない工夫はないものか?
の過程を踏んでいる。
それを4000年前の人類が果たしている事実が驚きだ。
畑作(農機具)が始まったのは弥生時代からと覚えている。
しかしその時代(紀元前500年)は現代では、
弥生時代と呼ばずに縄文晩期と呼ぶのだそうな。
弥生時代と命名するのは水田稲作が始まってからだという。
ただしこれは関東の話で、華中長江からの移動は九州だが、
九州ではその1000年前には畑作が伝わっていたそうな。
つまり民族移動と技術伝来は1000年掛けて1000km北の関東に到着したという訳だ。
しかしながらこの時代、ヒッタイトではすでに製鉄が始まり、
ギルガメッシュ叙情詩的文学の興りなど、今は江戸時代か?(紀元後1600年か?)的な錯誤に陥るのであった。
そうやってこの農耕時代を見るともうすでに洗礼されているかに見えるではないか?
・切れる工夫とは?
・彫る工夫とは?
・薄くする意味とは?
などを理解し、囲って水を蓄え稲を増やす・・・・といった技法を紀元前に果たしているのだから、人類の能力の活性は相当なものだったんだろうな。
弥生時代と飛鳥時代の間に古墳時代って名前の時代あったっけ?
すっかり忘れてる。
卑弥呼の前方後円墳は弥生に入れちゃってたよ。
しかしこの埴輪の大きさにビックリ!1メートルはある。
こんなでっかい人形を埋めていたんだ・・・・埴輪ってもっと小ちゃくてかわいいものだと思っていたよ。
なんか・・・・かわいくない・・・・・。
ちなみに正確な大きさを知りたかったので(暇そうにしている)学芸員に尋ねてみると、
「知りません」
「そんな事を聞いた人は居ません」
「専門家に質問シートを出して下さい」
と神社仏閣の若奥様と同様の無知ぶり。
自分の仕事にプライドないのかね〜!?
この時代、ガラスが伝わってまもなく。
だから装飾にガラスを用いる勾玉はまだ無かった。
ところでこのでっかい子持勾玉ってなんだ?
ちなみに日本一大きい勾玉は75kgもあるそうな。
キリスト様ご生誕後、一気に奈良時代。
何故か飛鳥が飛んでいる。
蘇我氏の末裔による摂関政治はその後の明治維新にも多大な影響を与えた事から関心があったのだが・・・。
平城京の上級役人と下級役人の食事の比較だそうで、
こうした人の生活を垣間見る覗きは楽しい。
大豆・小豆・大根、煮鰹・アワビとウニ和え!・あゆ・わかめ・・・に白米・・・・と。
1300年前の食べ物とは思えない・・・・・。
でも下級になるといきなり、メシ・汁・ひじき・・・だもの。
庶民は、ひえ・塩・・・!・・・だったんだろうなぁ。
ちなみにこの時代、仏教により肉類は禁止されていたようです。
平安〜室町中期までは、楠木正成くらいしか興味が持てていないのだが、そのへんも展示が無かったので飛ばし。
だからいきなり1570年、室町後期の戦国時代だ。
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を打ち破り、上京して「天下に信長あり」を示した頃だ。
そのころの京都の四条の街並みだそうな。
なんかこの手のジオラマは時間を忘れて見ていられるな。
座り込んでジーと見ていたら30分もたった頃だろうか?
学芸員が心配そうに(不審そうに?)近づいては声を掛けるでもなく離れていった。
だってさ。
この土壁とか窓っつーか、
吹き抜け?採光枠?
玄関ムシロだし、1Kにもならない、(キッチン含む)1じゃん!
鍵も窃盗もあったもんじゃないな・・・。
「おぅ!八っつぁん!居るかい!?」
「なんでぇぃ!熊五郎!」
なんて声が聞こえてきそうだ。
なんか何気にすごい発見をしてしまったのだけど。
細川忠興はキリシタンじゃないです!!・・・・よね?
なのに何で印章があるの?偽物?
んな訳ないよね?国立博物間が!?
確かに家康に従ってキリシタン弾圧をするまでは、
玉(ガラシャ)の件もあるので親キリシタンだったようだけど。
後でネットで調べてみたが、全然話題に挙がってないぞ!
本当は洗礼を受けていたって事??
どうしよう・・・大変な事を知ってしまったかも・・・・??
陸奥守吉行で見慣れた鮫皮だ。
正確にはエイ皮だけど、日本中の武士の柄に使用するんだから相当な量だったハズ。
当然鎖国な訳だから国内漁獲なんだよね?
でもその明確な記録も見つからない。
で、何の前触れもなくジョン万の「漂流記」だよ。
これまでの経緯が無いまま年表には、
「遣欧使節団」の次が「岩倉使節団」になってる!
え〜!?
その間の全ての出来事が幕末史なんですけど?
幕末に関わる資料って・・・・何もないの?
ちなみにこれが本物か否か?の記載もありません。
やっぱりな・・・・。
明治維新も完全に飛ばされている・・・・・。
どうしてここで民権運動になっちゃうのよ・・・・
もうがっかりだぜぇぃ・・・・。
しかしこの杯は高知県でも見たこと無かったな。
珍しいお宝だと思うよ。
なんかもう面倒になっちゃって。
大正以降の戦争は今のところ関わりたくないので全部飛ばし。
終戦後の昭和ノスタルジー・コーナーへ。
40年ほど前までは普通にこのお風呂の点火係りをやってましたけど?
何で展示しているのか?が判らなかったりする・・・・。
さすがにこのハンドルは無かったな。
近所のおばさんのうちで回して遊んでた記憶はある。
このザブのパッケージは覚えてるなぁ!
これも普通の台所の風景。
水道・網棚・酒の配置もそんな雰囲気!(コーラは無かったな)
カネヨのクレンザー使ってたし!
冷蔵庫も1ドアだったし、炊飯釜もそんな感じ。
そうそう!
ハエ叩きと小さなほうきはそのままだ!
・・・あれ?ここあたしんちかぁ〜?
この向こうが玄関で終了!ってな狭さだけど、
父親が玄関から帰ってくるのをガラスごしに見ながら、
それでもウルトラQをビビりながら見ていたな。
食器棚もテーブルもそのままだ。
この焼け焦げた跡とかそのまんまじゃん!
このテーブルのモールってすぐ外れるんだよね。
棚の上のビスケットの右の機械はなんだろう?
ナショナルって書いてある。
またその左の機械も知らないや。
きっとうちには無かった文明なんだな。
いや、楽しかった。
なんでも館内の総歩行距離は4kmになるとか。
ゆっくり歩いて見て回ると半日は掛かるでしょう。
さて、外に出るとまだ明るかったので佐倉城址公園内を歩いて佐倉城跡に行ってみる。
歩くこと10分、一の門跡に辿り着く。
あれ?ただの広場だよ?
と振り返ると看板が。
ほぅ・・・・土盛だけで出来たお城かぁ・・・・・。
やべ、あたしってば、お城の知識は皆無だった・・・・これ以上の詮索はできません・・・。
本丸・・・・の跡・・・・らしい・・・。
なんかさぁ、江戸城にしても高知城や小倉城にしても、本丸に辿り着くまでに、三の丸〜二の丸の時点でヘトヘトになる感覚があったんだけど、平地を歩いて1分で到着って・・・・いいのかな・・・落ちやすそうなんですけど・・・・?
あ〜、この人が佐倉城主なのね・・・・多分この田舎で戦(いくさ)も知らずにのんびりと生涯を終えたんだろうなぁ・・・・って、調べてみたら、意外や意外!とんでもない人だった。
なんと、大坂城代を務めたのちに江戸城の老中になってる。
いや、なってるなんてもんじゃなくて老中首座を阿部正弘から直接委譲されている!
首座といえば徳川13代家定(篤姫の旦那)に次ぐ筆頭家老な訳だから今でいう内閣官房長官みたいなものだ・・・・なんで?
1833年というと、竜馬の生まれる3年前、すでに蘭学を学び「蘭癖」と呼ばれたそうな。
島津斉彬と1つ違いの1810年生まれだから、もしかしたら関東における聡明者の一人だったのかもしれない。
その勤勉を買われてのトントン拍子の出世だったらしいが、水野忠邦(ただくに)の天保の改革が尽く外れて悪評を買った際に、改革方針に反対し続けていたこの人、堀田正睦(まさよし)はさっさと辞任してしまったたそうだが、1855年、45歳で阿部正弘の推挙で老中に返り咲いたというからすごい。
にしても阿部正弘に推挙されるってどんだけ実力派だったんだ?
なんかビックリである。
そしてもっとビックリだったのは、なんと岩倉具視と史実で繋がっていた事である。
3年後の1858年、タウンゼント・ハリスによる日米修好通商条約締結要求に対しての勅許願いの全権を担い、廷臣八十八卿列参(ていしん88きょうれっさん)事件に阻まれて退散したその当人だったのだ!
もちろん廷臣八十八卿列参事件の首謀者は岩倉具視である。
う〜ん、知らなかった!
自分的には、尊皇攘夷の視点から「幕府が開国願いを上申してきた」でお終いであって「誰が持ってきた」までは意識していなかった。
改めて史実を紐解くと確かにどの歴史書にも「老中堀田正睦が」とある。
すげ〜っ!!これだから歴史は面白い!
退散したといってもそのままでは終わらせない堀田正睦は一橋慶喜を将軍にすれば朝廷も変わるだろうと一橋派に切り替えた途端に、井伊直弼が大老になり安政の大獄が始まった。
一橋家は井伊大老にとって敵であるが故に、ここで堀田正睦の政治生命は完全に絶たれてしまった。
一方で相変わらず棚上げ状態の日米修好通商条約であったが、もともと富国強兵の為の開国論者であった井伊直弼は、幕軍援助のフランスと薩軍援助のイギリス両国によるアヘン支配論をハリスに説かれ、その脅威から朝廷を無視して勝手に条約を起結してしまったのだった。
だから・・・・条約締結においては堀田正睦はすでに関係ないハズ・・・・・なんでここにタウンゼント・ハリスが居るのか?が判らない。
さて、今日は東京区最後の目玉区域、多磨霊園にやってきました。
朝起きて、フッと「あっ、行ってみよう!」と9時に出発。
リード100は何時でも待機していてくれるから嬉しいぞ!
自宅から2時間掛けて東京横断。
R14号経由でR20号をひたすら走る走る・・・・・。
一本道をテロ〜っと走れば、左に皇居・御苑、右に靖国・新宿ルミネと喧騒の移り変わりが楽しめる。
中央フリーウェイの調布ICを過ぎて調布飛行場が見えてきたらその隣だ。
【60.西郷従道】
場所:10区1種1側1番
さいごうつぐみち。
(西郷家では”じゅうどう”が正しい呼称)
西郷隆盛の実弟。
陸軍中将。
兄の影響で早くから勤皇に目覚め誠忠組に入る。
寺田屋事件に参画、薩英戦争で英国艦に乗り込んだり、鳥羽・伏見の戦いで瀕死の重傷を負ったりと、まぁ元気な跳ねっかえり。
しかしながらさすがに隆盛を兄に持つだけあって、正道を見極めるまでにそう時間は掛からなかった。
大久保利通に対する反抗思想はいつのまにか尊敬と服従に変わり、敬愛する兄を敵に回した西南戦争では苦悩に胸を掻き毟りながらも、沈着冷静に政府の要人たる役目を果たす。
最終的には隆盛の意図する「もうおいがおらんでも心配なか」に成長してくれた大久保・従道らを見届けた形で死出に立った兄を涙に暮れながら手厚く葬ったという。
傍らには寄り添うように妻・清子と長男・従理(じゅうり)が眠る。
従理は留学先の米国で病死。
わずか10歳の命であった。
【61.西園寺公望】
場所:8区1種1側16番
さいおんじきんもち。
公家。
第12代内閣総理大臣。(明治39年)で立命館大学創設者。
討幕からはもう2世代ずれるので維新においては具体的な活躍はない。
まぁ今回たまたま取材現場の近くに眠っていたから。
史実としては大村益次郎暗殺現場に居る予定だったが偶然難を逃れた人物。
後に政権の牽引役を勤めた事を考えると、後の歴史が変わったかもしれない分岐点に存在していた人物と言える事は言える・・・・。
【62.大久保一翁 】
場所:11区1種2側3番
おおくぼ いちおう。
幕臣。
勝海舟を見出して登用した人物。
井伊直弼の方針に異を唱えて罷免されるものの、復帰後に大政奉還を支持し、勝海舟・山岡鉄舟と並んで無血開城の幕府側御三家となる。
その功績から東京府の知事も勤めた。
もちろん薩摩の大久保利通とは別の人ですよ〜。
【ちょいと休憩た〜いむ!】
先日バラエティ番組を見ていて深川に江戸時代の博物館がある事を知った。
展示がメインのようだったので出掛けてみた。
正式名称は深川江戸資料館というらしい。
例によって愛車リード100でお出かけ。
R6をひたすら南下した都立現代美術館の交差点を右折した近辺、
JR両国駅を挟んで江戸東京博物館と反対側になる。
駐車場が5台分と都内の施設としては珍しく親切。
観覧料300円を払って中へ。
入場と同時に猫が「ギャァ〜」だか「ビャ〜」だか鳴いた。
よく見ると眼下の屋根の上の猫がグルーミングをしていた。
たぶん入場口にセンサーがあるんだろうな。
「いらっしゃ〜い!」ってな感じか。
またいきなりこの光景なのでちょっと期待したのだが結果的にはこのスペースだけだった。
ま、300円だし・・・・。
どうも中は「勝手に入って・触って・撮影して!」タイプのようだ。
さっそく一軒づつ入ってみる。
ここは八百屋さん。
折角だから一人称目線で。
ここに座っていると客が入ってくる感覚だ。
ちなみに野菜は全部塩ビだった。
ここは長屋の一室で三味線のお師匠さんの家らしい。
三味線といいながらもこの時代は、読み書き、手習い、裁縫なども教える先生という事であったらしい。(パンフレットより)
2歩で渡れる向かい合わせの長屋には、貝のむきみを秤り売りする”政助”と米をついて精米・販売する米屋の職人の”秀次”が住んでるらしい。(知るか!)
本当に障子に名前を書いていたのか?を知りたいよ。
でも、もしこうした長屋にまで郵便が普及していたとするならば表札は必要だったかもな?
こうした長屋の路地にはこのような扉があって一応セキュリティは掛けていた!?らしい。
つまりは顔見知り以外は歩いていないという訳か。
まぁ、それが最高のセキュリティである事は、皮肉な事に今の世の中が一番証明しているわな・・・確かに。
八百屋の前のメイン通り!?(それでも4歩で反対側の店だけど!)には”稲荷鮓”屋。
Q1:何故いなり寿司?
Q2:何故寿司じゃなくて鮓?
A1:いなり寿司は当時庶民のデリバリNo1だったようです。
豆腐を作る技術から油で揚げて油揚げを生成するまで現代と一緒。
ただ単価がメチャ安かったのだそうな。(明確な理由は見つからず)
Q2:味は現代のように甘辛くというよりは、油揚げの中におから等を詰めてワサビ醤油で食べるのが一般的だったらしく、本来の刺身を使った鮓メシと同じ感覚から鮓としているらしい。
しかしまぁ、この状態を不衛生と切り捨ててしまうのは、この20年くらいじゃないかな?
自分が幼少(40年以上前)の頃は、秤り売りなんて当たり前だったし、アルマイトの鍋を持って走った記憶はあるものなぁ。
時代劇でよく見る蕎麦屋台。
意外に大きくてちょっとビックリ。
屋根のテッペンまでは180cmくらい。
仕組みは大いに興味があったので全部の引き出しを開けてみた。
こうして見ると、材料の面積は小さいんだな。
どんぶりは重ねて20椀くらいは積めそうだけど、ソバは詰め込んでも一つの引き出しで20食が限界。
もしかして意外に早く店仕舞いしていたのかな?
反対側は茹でる釜と水、調味料など。
やっぱり大した積み込みは出来ないようだ。
しかしだからといって、これ・・・・担げるか?
水と釜だけでも(樽の大きさから)30kgはあるぞ?
つまり合計で60kg以上あるぞ?
結構重労働だったんだなぁ・・・・・。
何時の世の中でも、甘い商売は無いんだよなぁ・・・・。
同じく屋台の天麩羅屋の主人目線・・・・って、オイ!
ちょっと手抜きすぎじゃね?
材料何にもないし、油が客寄りすぎだろ?
もうちょっと判る解説してくれないかなぁ・・・・・。
茶屋の娘目線。
茶釜の横の小さな箱の使い方が判らん。
中には真っ赤な炭が入っている。(つもり)
おそらく客ごとに一つ渡すんだろうし、それで何かを熱つ熱つに保ったまま・・・?
何をどうするのだろう・・・・・。
いや、楽しかった。
国立歴史民族博物館が全長4kmの行程を半日掛けて420円で周れるのに比べると・・・・なんだけど、持論である「100回読むより1回見ろ!歴史は視覚的体感こそ経験なのだ!」からすると、随分判りやすい楽しめる資料館だった。
面積的にこの2倍あったらお徳感が増すのになぁ・・・・。
【2012年9月】
「関東維新史跡巡り」を始めてもう半年。
訪問箇所60箇所以上と予想外の成果!というか「こんなにあるんだ江戸史跡」
まして幕府末期のしかも新政府側からのみ見てきてだ。
もちろん今回の小栗も含めて勝海舟や徳川慶喜なども巡ったけどね。
そしていよいよ最後の訪問地、横須賀だ。
最後の理由は「遠いから」。
やっと”いちさん”で巡る出番がきたのでした。
07:30出発
今日は湾岸線を羽田空港−大黒埠頭−本牧埠頭−磯子経由で走ってみた。
気持ちのいい朝だ!&大正解!カラカラ!
先ずは大黒PAにて休憩。
先週走った河津七滝ループ橋も面白かったけどこっちのループはスケールが違う。
地上にあるPAからスタートして最後はそのPAを上から見下ろしながらのループは爽快!
一度味わってみて下さいな。
08:40
何か珍しくいい感じのショット。
大黒PAの駐輪場にて。
【63.小栗上野介 】
横浜横須賀道路を使いたくなかった(首都高の900円だけで済ませたかった)ので幸浦で降りる。
八景島−金沢漁港から日産追浜工場脇をすり抜け、横須賀に入る。
09:50
ヴェルニー公園到着。
JR横須賀駅のまん前にあるこの公園は湾岸沿いに幅30mほどで長さ400mほどの広さ。
幕府の要請によりフランスから造船・製鉄といった近代技術を伝授しにきたヴェルニーを称える記念公園。
当然、幕府の海軍奉行並である小栗上野介が陣頭に立って采配した事からその功績を称えた記念碑でもある訳だ。
ヴェルニーと小栗上野介が仲良く並んでいる。
一方で、180度反転して港を伺えば、現実には米海軍の最重要拠点であり、横須賀基地は治外法権である。
まぁ、ここで国政論を持ち出すつもりはないし、かと言って軍事マニアでもないのでこれ以上の表現はしない。
やめ!やめ!次!
【64.おりょう会館 】
ヴェルニー公園からわずか2kmのところに「おりょう会館」がある。
名前だけ聞くと県立や市立のおりょうの為の記念館のように聞こえるが、単なる葬儀屋の会社である。
しかしながら全くの無関係で名声の乱用か?というと、そうではなくて、
竜馬の死後に数奇な運命を辿った末に、西村松兵衛方の妻としてこの場所で暮らし人生の終焉を迎えたのだった。
その終焉地を記念して「おりょう会館」と命名したとの事(出展:当日おかみに直接聞いた)なので、何とも複雑な思いだ。
まぁ、我々竜馬好きからすれば「この場所に晩年のおりょうさんが生きていた」ってだけでいいわな。
【65.坂本龍子の墓 】
おりょう会館から3kmのところに「坂本龍子の墓」がある。
これは迷った。
京急大津駅はごちゃっとした下町の中にローカルに存在するもんだから、いちさんみたいなデカいバイクで探す場所ではない。
やっとバイク1台通れるか?ってな路地なので、すべてのじっちゃんやばっちゃんが振り返る。
クルマでは絶対にUターンできないので注意が必要!
普通に檀家さんが居るのでカメラをそっと隠す。
でも慣れているのか?みな見て見ぬフリをしている。
いや〜、やっと夫婦の面会が終わったよ。
竜馬33歳の丁度倍生きたおりょうさんだが、その生涯は決して安穏だった訳ではない。
いや、むしろ茨の道だった。
にも関わらず寿を全うした裏には悔しくて悲しくて情けなくて自害したい気持ちもあったろう。
その反動ゆえに悪く見る輩からすれば自由奔放、自由闊達という中傷もあながち虚偽空論ではなかったのだろう。
竜馬と生きた2年間はおりょう66年史の99%を占めていたのだと断言してもよい。
それだけ「太っとか男」、それだけ強烈なインパクトを与える男像とはいかなるものなのか?
自分には、いや、現在人には備わっていない、ニッポン男児の魂とは、どう表わす事ができるものなのだろうか?
おりょうさんの墓前で手を合わせると、そんな事を夢想してしまうのでした。
さて、このままペリー公園に向かおうとしたところで大変な事が起きた。
いちさんのセルが回らない!
焦って無駄打ちする経験はしているので、黙って時間を置く。
渾身の一撃!で火を入れる事に成功!
もうここから帰るまでエンジンを切れない。
急遽帰路に着く事にして自宅まで100kmノンストップで帰る。
帰宅後にそのままバイク屋へ。
高温時のアイドリングの不調と共に点検を依頼いて帰る。
その夜に電話あり。
「バッテリーもう死んでるんだけど!」
「なに〜!?3ヶ月前に買ったばかりぜぇぃ?」
「訳の判らんもんに手を出すヤツが悪い!」
「・・・・・」
この後、古河電池の正規「FTX14-BS」を泣きながらポチッとな。
その装着後にレギュレータの点検に入るとの事なので、その詳細は来週くらいにメンテナンス・コーナーで。
(もう悲しくて情けなくて・・・ハッ!何だ!このおりょうさんとのスケールの違いは・・・・もう寝よ!)
【ちょいと休憩た〜いむ!】
千葉県印旛郡の房総のむらに行って来ました。
関東の史跡を検索するのに「史跡」「旧跡」「江戸時代」「明治維新」など多方面から当りをつけていた。
しかし先日TBSテレビの「THEナンバー2」を見ていたらロケーション地に「房総のむら」と出ていた。
房総のむら?知らない。検索。
なんだ?こんな処があったのか!?
江戸時代の商家や武家屋敷、豪農の家などを再現して展示している場所なのだ。
印旛沼を越えた成田空港まで10kmの場所にある。
確かに「房総」「むら」で検索した事ないし「屋敷」「武家」でも検索した事はない。
盲点だった。
尤も、明治維新とは無関係なので打ち漏らしとは思わないが、でも江戸の風情を垣間見るには面白い嗜好だ。
入場料300円。
東日本大震災の影響で補修工事が続いているようだが、大半の展示建造物は復旧していた。
小間物屋、そば屋、薬屋、鍛冶屋など各々の商売模様を再現している。
どれも間取りが似ていて「本当か?」とも思うのだが、狭小地区の場合はそうなのかもしれないな。
まぁ、あまり深く追求せずに楽しもう。
どの建物も2階が展示室になっていて、簡単な生活の模様が楽しめる。
しかし戸数が多いのでスニーカーだと面倒だ。サンダルがよい。
呉服屋の帳場目線。
向かいは菓子屋で手作りモナカの実演に小学生が群がってる。
遠足楽しそうだなぁ〜。
県18号を跨いだ敷地内にある豪農の母屋までグルッと歩いて回ると約1kmってとこか。
ゆっくりと歩いて見ると数時間は要する。
現代でも特に変わった風景ではないのだが、
これが全部「房総のむら」の敷地内に再現として作られたものである事が驚きである。
(さすがに藁葺き屋根の家は無いか・・・)
当然、道は未舗装だから坂などは雨が降ると大変だろう。
本物の畑や小川が流れ、芝生や雑木林が混在していて、こりゃ管理するのは大変だ!と感じる。
県レベルじゃないと維持は無理なんだろうな。
敷地面積約10万坪(570m四方)の中には水車で脱穀する作業小屋や水田が広がる。
午前中に回ってしまったので、ついでに6kmほど離れた成田山新勝寺にお参り。
バイクで15分ほどの距離だ。
10円で交通安全と家内安全を祈ってそそくさと帰る。
【続けて休憩た〜いむ!】
千葉県松戸市にある戸定邸(とじょうてい)に行って来ました。
徳川慶喜が大政奉還・戊辰戦争敗北・恭順・駿府隠居と波乱の人生の終焉として写真や狩猟などの趣味に没頭した余生を過していた中、慶喜の(腹違いの)実弟で水戸藩主だった徳川昭武(あきたけ)は家督相続後にこの別邸を建造したそうな。
その昭武の次男である武定(たけさだ)氏がこの松戸徳川家初代当主となったのだが昭和26年に松戸市に寄贈して、松戸市所有の国の重要文化財となった。
その後も公民館として開放していたなど、改修や改築が結構あるらしいのだが、それでも武定氏が私財を投げ打って寄贈してくれなかったら、今頃はマンションが立っていたであろうとの話にただただ感謝するばかりである。
我々はこうした文化財を継承すべく、すぐにできる事は「みんなで訪れよう!」と広める事であると感じる。
約7千坪の敷地に邸宅と庭園が、都心まで遠くない立地にも関わらず見事に調和している。
あたしんち200戸ぶんなんだぁ・・・・。
開園は9:30から。
実は開園の30分前に到着してしまったので、こうして庭園を歩いていた。
まだ閉まっているの図。
9:30ぴったりに開園。
一番乗り!
玄関を入って、いきなりこの見事な通し天柱が目に付く。
すげ〜!速攻カマされたぜぃ!
突き当りの客間より庭園を眺める。
ところでこの欄間、すこし低いと思いません?
あたしの背とピッタリ一致したので175cmです。ちょうど5尺8寸ってとこですか。
これは何も「昭武さんの背が低かったから!」とかいう訳ではないのです。
万一、賊が押し入った場合に、大刀を抜いても上段から振れないようにわざと低くしているとの事。
命に関わる知恵だったんですね。
ここで慶喜は弟の昭武と一緒に写真を楽しんでいたとの事。
ちなみにそれらの写真は当時の写真投稿雑誌「華影(はなのかげ)」に投稿していたのだが、随分ボツになっていたらしい。
おいおいっ!
10年前まで将軍様だぜ!?
日本国の最高権力者だぜ!?
いくら「公家や華族など地位や経済力のあった人々が資金を出し合って作った雑誌」とはいえボツにするって、なんて公正な雑誌なんだ!
ってか、もと将軍様がせっせこ投稿するかよ!?
かつ没になっても投稿しつづけるかよ!?
晩年は随分と丸くなったのだのぅ・・・・・。
今は江戸川沿いに発展した街並みを展望できる。
お〜っ!
蔵の中には「葵の御紋」の大きな葛篭(つづら)があった。
当時はこの御紋を見ただけで土下座ものだったのだろう。
御紋といえば柱の釘隠しに葵の御紋が。
三つ葵(みつあおい)とは異なる二葉葵なのだが徳川昭武との関係は判りませんでした。
トイレ。
そういえば外を見ながらの立ちションは昔は当たりまえだったなぁ・・・・。
ちなみにボットンは塞がれていました!(当たり前か・・・)
湯殿。
風呂場ひろっ!
なのに湯船せまっ!
明治17年当時は木の湯船だったようで、風呂釜を直接熱する五右衛門風呂だったようだ。
このタイル張りの湯船と水道は昭和初期の改築らしい。
Q:明治時代にガラスがあったのですか?
A:ありました。
ガラス窓自体は西暦300年にはローマで発明されていたが普及は1500年以降だそうな。
日本では1650年には建築に取り入れられていたらしい。
そして驚いた事に、ここにあるガラスは当時の現存するガラスそのものなのだ!
尤も破損したりした箇所は現代の工法で修繕されているのだが、
当時の「シリンダー法」という円筒に吹いたガラスを縦割りにして平らに拡げる工法の過程が見事に伺える。
要は浮沈子のデッカイ版なのだが、ちなみに中学生の夏休み自由研究(35年も前や!)で作った浮沈子は10mm程度のガラス管だった。
当時のトッポジージョ小林(というあだ名の)先生(♀)にふいご(たたら)の使い方を教えてもらってようやく完成したのだが、それでも息の入れ加減で壁が薄くなって破裂したものだ。
だから窓になるほどの大きさの浮沈子を作る技術、しかも一定の厚さを維持する技術は相当な努力の積み重ねだと感じる。
ちなみにここを管理している方々は、この平屋18Kの間取りの雨戸とガラス戸を毎日開け閉めしているのだそうな!
国の重要文化財ですぞ!
壊したら二度と元に戻せない素材ばかりですぞ!
実際、相手をしてくれた方は、火事と雷が一番怖いと言っていました。
お仕事とはいえ、ホント!頭が下がります!
続いて隣接する歴史館なのですが、こちらは撮影禁止という事で画像が一切ありません。
慶喜さんが撮影した写真がポツポツとありましたが・・・・。
1867年フランスのパリで万国博覧会が開催されたが、幕府は日本国初の出展をする。
まだ慶喜が将軍だった頃の話だ。
実は渋沢栄一らが随行した目的は幕府へのフランスへの借款依頼だったのだが、徳川昭武は次期将軍を世界に宣言する重要な役割であった。
そのままヨーロッパ巡業でフランス留学していた昭武だが、日本では明治維新が興り、幕府方である昭武のヨーロッパ(特にフランス)における影響力を懸念した三条実美と岩倉具視は、昭武に対して水戸藩主のポストを用意したのだった。
戸定邸開設シート:戸定邸見取り図:50円
松戸徳川家関係系図:徳川家家系図:50円
徳川昭武のヨーロッパ体験:解説文:200円
ちなみに「徳川昭武のヨーロッパ体験」は本日から販売を始めたもので、当然、開園前から居たあたしが1人目のお客だったのよ!
やったぁ〜!
(嬉しいのか?それ?)
【66.千葉灸治院跡】
只今、2023年5月。
なんと!11年ぶりに興奮しながら加筆している。
四国は高知県から始まった「坂本龍馬を巡る 維新探訪の旅」もはや16年。
まだ長崎・鹿児島を残しているものの、2012年には関東全域65か所を廻って史跡を追った。
当時の自分が調べに調べて探した重要と思われるポイントの全てを廻ったつもりだった。
しかし・・・なんてこった!!
こんな跡地を取りこぼしていたなんて。
一緒に四国を走ってくれた2001年生まれのバイクは今でも東北の地で元気に第二の人生を送っているのだが、そのバイク倶楽部仲間が竜馬好きを知ってくれていて教えてくれた情報。
【36.千葉定吉/重太郎の墓 】では、雑司ヶ谷霊園にて千葉定吉と重太郎の墓に参り、さな子の墓を見つけるために足立区教育委員会発行の「足立史談」を頼りに【43.千葉さな子の墓】にたどり着いた。
にも拘らず、足立区のホームページにこんなにデカデカと掲載されていたなんて。
このホームページによると(土地所有者の好意で)NPO法人千住文化普及会(足立区立郷土博物館登録グループ)によって2010年4月に設置・公開されたらしい。
んじゃ、自分が調べた時にはもう存在していた訳だ。
何故見逃していたのだろう?
ええ、そりゃもう情報を貰った翌週には行ってきましたよ。(ありがとね!!)
北辰一刀流桶町千葉道場主の娘として門下生の龍馬と出会い、その後に竜馬を慕うがために生涯独身を貫いたさな子。
竜馬が江戸を離れる最後の日に受け取った紋付の片袖を形見として「わたくしは坂本竜馬殿の許嫁でした」と語っていたなさ子。
竜馬亡き維新後はその想いを胸に剣術を捨てて家督伝来の灸を生業として静かに余生を過ごし1896年(明治29年)に59歳で逝去。
詳しく調査した当時は、一途な想いだけで生涯幸せに思える人生録なんて、まるで小説のラブ・ストーリーを地で行ってるような乙女心に感銘を受けたものである。
久しぶりにさな子に逢いに八柱霊園に参ってくるか。
(関東編、まだ続く・・・かも?)
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